「本能寺の変」は朝廷が黒幕!?織田信長が征夷大将軍に打診された三職推任問題とは:2ページ目
官職を受ける以上は……信長のこだわり
天正6年(1578年)4月、信長は右大臣と右近衛大将の官職を辞任してこのかた、ずっと無官。天正9年(1581年)に朝廷から左大臣の官職を授けようと打診しますが、信長はこれを辞退しています。
なぜか。信長は変なこだわりというか律儀なところがあったようで、朝廷の高官に就く以上はちゃんと京都にいて朝廷のために尽力しなければならない、と考えていたとか。
「一度引き受けるからには全力で。名前ばかりなんて我が美意識が許さない!」
と言ったかはともかく、四方の敵と戦っている状態で朝廷の政務に専念などできません。だから大臣職を受けなかったと言います。
しかし古くから官職(名誉)をもって武士を手なづけてきた朝廷としては、そんな信長の態度が怖くて仕方ありません。
がっちり抱き込んでおかないと、いつ見捨てられて経済的支援を打ち切られてしまうか、不安でならなかったのです。
要するに「貸し」を作ることで信長との連携を強化したい朝廷。意外と律儀な信長のこと、一度「貸し」を作れば、それを返すまではしっかり忠義を尽くしてくれるはず。
そこで朝廷は関東平定(武田氏討伐)の勲功をもって征夷大将軍の官職を与えようとしたのでした。
さる3月、東夷(東国の逆賊)たる武田勝頼(たけだ かつより)を征伐した信長に相応しい官職と言えるでしょう。
終わりに
以上の件は「三職推任問題」と呼ばれ、本能寺の変における朝廷黒幕説の主要因としてピックアップされていると言います。
しかしその実態は、信長が官職を欲しがるどころか逆に辞退しており、朝廷は(要求を突きつけられるのとは)逆の意味でやきもきしたことでしょう。
朝廷は本能寺の変の黒幕どころか、むしろ信長にこれからも庇護して欲しいと願っていたのでした。
それにしても、もし信長が征夷大将軍の官職を受けたとしたら、織田政権は後世「織田幕府(安土幕府)」と呼ばれるに至ったかも知れませんね。
※参考文献:
- 呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年3月