日常的に着物を着ていた日本人が何故洋服を着るようになったのか、明治時代の「引札見本帖」に探る【完結編】
日本人はもともと長い間“和服”を着て生活してきました。しかし今は“洋服”を着るのが普通であり、着物などの“和服”を着るのは特別な時でしょう。
日本人の着るものが、和服から洋服へと変遷していく黎明期を『引札見本帖』を参考にご紹介します。
前回の記事はこちら日常的に着物を着ていた日本人が何故洋服を着るようになったのか、明治時代の「引札見本帖」に探る【後編】
大正時代の日本人の西欧化
大正時代に入ると、だんだん“引札”の存在は薄れ、新聞広告やポスターへと広告媒体は変化していきます。大正3年に三越新館完成の広告が新聞に掲載されます。
上掲の三越呉服店とは、江戸時代に繁盛した“越後屋”を発祥としたお店です。次の浮世絵「名所江戸百景 駿河町」にその様子が描かれています。
紺の地に「井桁の中に“三”の紋」が染め抜かれています。三越なのに、三井?それについてはこのような理由があります。
1673(延宝元)年に三井高利が創業した越後屋。屋号は高利の祖父の時代まで「越後守」を名乗る武士であったことから「越後屋」とし、人々からは「越後さんの店」と呼ばれていました。その後三井家の姓を取った「三井呉服店」となり、1904年、「三」と「越」を取って「三越呉服店」となり、現在の「三越」に至ります。
『三越のあゆみ』より引用(https://www.imhds.co.jp/ja/business/history/history_mitsukoshi.html)
ちなみに上掲のポスターは三越呉服店懸賞ポスター第1等受賞作のポスターです。少し古くなりますが明治44年のものです。
この時代は「大正デモクラシー」という言葉に象徴されるように、人々は“藩閥政治”を否定し、国民の意思を反映した「政党による政治」を求めるようになり、
一般庶民が生活の苦しさに起因して、一揆やストライキ、デモ、そして女性の自立を求める運動など、具体的に政府に運動を起こす時代となったのです。
急激に西洋文化が日本に流入してくるということは、物品だけではなく日本人の思想・考え方にも影響を与えていったのです。それはつまり“自由”という発送です。
都市部近郊の鉄道や道路網の拡大、自動車・乗り合いバスなどの交通手段の発展により都市化が急激に促進されました。
そして富裕層と低所得層の間に、大学の卒業者の半分は会社に就職するようになり“サラリーマン”が誕生します。そして中産階級という収入の安定した人たちが企業の発展に伴い急速に増えていったのです。
またレコードや活動写真の出現、電報・電話技術の発達、そして新聞・書籍・雑誌の普及など、1925年(大正14年)には、東京、大阪、名古屋の主要三大都市でラジオ放送が始まりこれらの新しいメディアによって文化・情報の伝達も飛躍的に拡大しました。