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「敵に塩を送る」はどこまで実話?上杉謙信の義侠心と武田信玄の食糧戦略:2ページ目
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武田信玄、「味噌」に目覚める
史書にもあるように、謙信は無償で塩を送ったりしたわけでもなければ、塩を高値で売り付けるということを行ったわけでもありません。
ただ、まっとうに販売し続けただけです。
もちろんここで、禁輸に同調して敵を追い詰めることもできたでしょう。しかし卑怯なことはせず、真っすぐで義理堅い上杉謙信らしい決断でした。
「敵に塩を送る」ほど甘くはないけれど(塩なだけに…)、さすがは上杉謙信。その義侠心は本物です。
さて、この騒動により、塩の入手を他国に依存するのがどれほど危険か痛感した信玄は、味噌に目を付けました。
信玄の領地は大豆の産地でもあり、涼しい気候でもあったため、味噌作りに適した環境でした。たくさん作って保存しておけば塩分に困ることもありませんし、栄養も採れます。
味噌にはアミノ酸やビタミンなど栄養素が十分に含まれており、体にもいい発酵食品です。甲斐の国で味噌作りが奨励されてから、どの武将も必ず戦には味噌を持参していたといわれています。
ただ、味噌をそのまま持ち運ぶと鮮度が落ちてしまうため、当時の人たちがよく使っていたのが「芋がら縄」でした。
これは、里芋の茎を乾燥させて味噌や酒などをしみこませたものです。しっかり干すことで保存もきき、実際に縄として使うこともできたそうです。
しかし信玄は味噌づくりだけでは満足しませんでした。彼は、領民が十分に栄養を採るにはどうしたらいいのかを考え「陣立味噌」を編み出しています。
これは、原料となる煮豆をすりつぶして、麩を混ぜ合わせ腰に下げて出発すると、戦地につく頃には味噌が出来上がっているというすごい食品です。
私たちが普段何気なく食べている味噌も、昔の人にとっては貴重な栄養源だったんですね。
戦国武将も、こうした「食糧問題」の解決のために腐心していたのです。
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