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日本の海賊「倭寇(わこう)」とは何者だったのか?その正体と対策の歴史をたどる

日本の海賊「倭寇(わこう)」とは何者だったのか?その正体と対策の歴史をたどる

貿易体制の整備で鎮静化

室町時代初期(南北朝時代)になると、倭寇はますます活発になります。高麗と明は、その狼藉ぶりにだいぶ手を焼いており、明の太祖などは倭寇取り締まりを理由に1371年に海禁令を出しているほどです。

倭寇は簡単に取り締まれるような相手ではなかったのです。

しかしそんな倭寇も、14世紀の終わりごろになると少しずつ勢力が衰えていきます。

理由は、東アジア情勢が安定したことでした。1392年に李氏朝鮮王朝が成立し(ちなみに李成桂は、倭寇の戦いでも功績をあげています)、同年、日本でも南北朝が統一されたのです。

そして1404年には、明の永楽帝と足利義満の間で日明間の勘合貿易が開始されました。これにより、室町幕府は貿易の安全性を確保するために本格的な倭寇対策を行うようになります。

さらに朝鮮王朝も、朝貢貿易に加えて民間貿易も行うようになり、富山浦・乃而浦・塩浦の三浦(さんぽ)に倭館を置き入港を認めるようになりました。これにより、朝鮮に対する倭寇の活動も収まっていきました。

こうして一時的に鎮静化していた倭寇ですが、足利義満の次の将軍・義持が明の冊封下での朝貢貿易を嫌って、一時的に勘合貿易を停止します。

これで取り締まりが緩んだため、倭寇が再び活動を活発化させました。

これに怒ったのが朝鮮で、1419年には、倭寇の根拠地だった対馬が襲撃される事件が発生しています(応永の外寇)

結局、後に日明間の貿易も再開され、この地域での倭寇の活動は徐々に沈静化ていきました。

ところが、話はこれで終わりません。16世紀に入るとこれまでと違った新しいタイプの倭寇が登場します。

3ページ目 ニュータイプ倭寇は日本と無関係!?

 

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