調子に乗り敗者をなぶる徳川家康に猛反論!戦国武将・平塚久賀かく語りき:2ページ目
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調子に乗った家康を批判
「くっ、殺せ!」
「フフフ……そうはいかんぞ」
家康の前に引き出された久賀は、ここぞとばかりに貶されます。
「バカめ。我が誘いを断って治部(三成)につくとは、つくづく人を見る目がないのぅ。それで、武功を立てて褒美はいかほど貰ったのか……あぁん?」
勝てば官軍負ければ賊軍……負けてしまえば褒美もへったくれもない、たとえケチでも勝馬に乗らねばのぅ……とまでは言ったかどうだか、頭に来た久賀は家康に反論します。
「武士が戦さに臨んで捕らわれるのは恥辱にあらず。そもそも内府殿とて元は今川の人質だったではないか。にもかかわらず他者を笑うなど滑稽千万ではないか!」
「ぐぬぬ……」過去のトラウマ?を衝かれて歯がみする家康に、久賀の批判は止まりません。
「さらに内府殿は故太閤殿下(秀吉)の遺命に叛いて若君(秀頼)をないがしろにし、天地神明に誓ったはずの起請文を破ってもこれを恥とも思わない様子。まったく武士の風上にも置けぬわい!」
「おのれ、言わせておけば!」
今にも刀の柄に手をかけそうな家康でしたが、ここで斬り捨てては完全論破されたままになってしまいます。
そこで家康は怒りを堪えて久賀を解放。生かしておくことでかえって苦労させようと、遠回しな仕返しを図ったのでした。
終わりに
解放された久賀は消息を絶ち、一説には生き延びて慶長20年(1615年)大坂の陣で討死したとも言われます(為広の子・平塚為景と混同?)。
たとえ敗れたからと言って尊厳を損なわれ、なぶり者にされる筋合いはない。逆に勝ったからと言って、不義の振る舞いが許される訳ではない……久賀の毅然たる態度は、そんな道理を訴え続けているようです。
※参考文献:
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