源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その3】:3ページ目
清原氏の援軍に活路を見い出した頼義
頼義が三度陸奥守に任じられる
安倍貞任や藤原経清は、源頼義に対する警戒心を解いていませんでした。しかし、そんな心配をよそに1062(康平5)年の春、源頼義の陸奥国司としての任期が終了します。これで頼義が都に戻れば、経清が考えた通りの筋書きとなったのですが、ことは思い通りに運びませんでした。
「黄海の戦い」での屈辱的な敗戦の復讐に燃える頼義はこの間、河内源氏に縁のある畿内・東海・関東の武士たちに働きかけ戦力の増強を図っていました。さらに、貞任・経清の動向に反発する郡司らと親密な主従関係を築いていたのです。そんな中、新任の陸奥守として高階経重が意気揚々と多賀城に着任しました。
頼義:実戦経験のない者が来ても、何もできるはずがない。ただ、国府の防衛が危うくなるだけだ。郡司たちよ、ゆめゆめ新国司の命令に耳を傾けるでないぞ。
申し合わせ通り、郡司たちは経重に全く従いません、この状況ではどうすることもできないと判断した経重は帰京し、陸奥守を解任されてしまいました。この事態に朝廷は混乱し、頼義が陸奥守として再々任されることとなったのです。
貞任・経清討伐の軍容が整う
三たび、陸奥守となった源頼義の動員兵力は約3000人にまで増加していました。しかし、「黄海の戦い」で貞任・経清軍の強さを身をもって知った頼義は、さらに大きな戦力の確保のため策をめぐらせます。
頼義:朝廷からの援軍はもはや望めぬ。こうなれば頼みは出羽の清原だけだ。なんとしても味方に引き入れるのだ。
安倍氏と並んで「俘囚の長」を務める出羽の清原光頼に、援軍を要請したのです。しかし、光頼は頼義の味方になることをなかなか了承しません。そこで頼義は光頼に数々の貴重な宝物を贈り、さらに経清や貞任が朝廷に反逆していることを説きます。そして最後は、臣下の礼までとって懇願したのです。
頼義の熱意に促された清原光頼は、弟の武則を総大将に7000人の援軍を頼義のもとに送りました。これで、国府軍の軍勢は一気に10000人を超え、貞任・経清軍の倍以上の兵力の動員が可能になったのです。
【その3】はここまで。【その4】では、滅亡する安倍氏と藤原経清の最期、そして、その後日談をご紹介しましょう。