バカ者!父親から枕を投げつけられた平安貴族・大中臣能宣、いったい何をやらかした?
御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)の焚く火の 夜は燃え
昼は消えつつ ものをこそ思へ※大中臣能宣。藤原顕輔 撰『詞花和歌集』より
【意訳】夜は恋の炎に胸を焦がし、昼は物思いに耽っています。
御所の垣根を守る衛士が夜警に焚く篝火が、昼間は消えているように。
「百人一首」第49番としても有名なこの和歌を詠んだ大中臣能宣(おおなかとみの よしのぶ)。
他にも多くの名歌によって知られた能宣ですが、ほとばしる才能のあまり失敗してしまったこともあったと言います。
果たして能宣は、何をやらかしたのでしょうか。
和歌界のエリート街道を歩んだ人生
その前に、大中臣能宣のプロフィールを少しばかり紹介します。
能宣は延喜21年(921年)、伊勢の神宮で祭主(まつりのつかさ。祭祀の総責任者)を務める大中臣頼基(よりもと)の子として誕生しました。
代々和歌の才能があったらしく、能宣はその中でも抜群だったと言います。
天暦5年(951年)には第62代・村上天皇の命により『後撰和歌集』の撰者に抜擢され、梨壺五歌仙(なしつぼのごかせん)にも数えられました。
梨壺とは御所の北東にある女御(にょうご。身分の高い女官)らの住居で、梨の木が植えられていたことがネーミングの由来です。
能宣のほかに紀時文(きの ときぶみ)、清原元輔(きよはらの もとすけ)、坂上望城(さかのうえの もちき)、源順(みなもとの したごう)がおり、それぞれ切磋琢磨していたことでしょう。
ほかにも『拾遺和歌集』など勅撰和歌集に多くの歌が採用されるなど、後世「三十六歌仙」の一人に名を連ねます。
天延元年(973年)には父と同じく神宮の祭主となり、寛和2年(986年)に正四位下に叙位されました。
そして正暦2年(991年)8月、71歳の生涯に幕を下ろしたということです。
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