対応をミスった鎌倉幕府。モンゴル・高麗による日本侵攻「元寇」は神風がなくても防げた?
モンゴルに日本を征服する気はなかった
皆さんは「元寇(げんこう)」をご存じですか。鎌倉時代中期に、当時のモンゴル帝国と高麗によって行われた日本侵攻です。1度目を文永の役、2度目を弘安の役と呼びます。
この元寇がなぜ起きたのかと考えると、反対に、「実は元寇は防げた」という結論に至るのです。
しかも元寇に限らず、もしかして当時の鎌倉幕府の権力者たちがもっと教養や先見性を身に付けていれば、鎌倉幕府の崩壊も防ぐことができたのでは…? とすら思います。
今回は、そんなことをテーマに解説していきます。
まず元寇についてですが、当時の「元」、つまりモンゴルにとっては、本来ならわざわざ日本を攻める必要などありませんでした。海の向こうの島国にまで進出するのは、モンゴル帝国にとっても非常にコストパフォーマンスのよくない策だったのです。
その証左もいくつかあります。元寇の前に、モンゴルは一年間、日本に向けて使者を送っていますが、その使者は、モンゴルに戻った後で皇帝フビライに以下のように報告しています。
「日本の人間は荒くれ者ばかりで、土地は痩せて耕作には不向きです。あんな所に兵を送っても割に合いません」
現代の日本人の視点で見れば、「コイツ一体日本の何を見たんだろう?」と思うのですが、時は鎌倉時代でプロレスラーみたいな武士たちが闊歩し、農業技術も今ほど発達していなかった頃なので仕方なかったのかも知れません。
また、そんな日本に対して、モンゴルは別に服従を求めていませんでした。日本に送られてきた国書も、驚くほど丁重なものだったのです。
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