ごちゃごちゃして分かりにくい!、室町時代「応仁の乱」発生のきっかけと経緯、その結末を総まとめ:3ページ目
やっと収束、そして戦国の世へ
そもそも、最初は家督争いで揉めていたのですから、瀬戸内海の貿易利権なんて多くの武士にとっては「知ったこっちゃない」と言いたくなる話だったのではないでしょうか。
こうして争いの原因がうやむやになり、当事者たちもなぜ争っているのか分からないまま、応仁の乱は展開していったのです。この、そもそもの目的が見失われてズルズルと戦が長引いていく様は、後年の日中戦争から太平洋戦争に至る流れを連想させますね。
応仁の乱はひどい戦乱でした。京都の寺や建物が焼失し、文化的価値の高い史書や歌集も灰燼に帰します。京では物資も不足し、疫病も発生しました。
そして応仁の乱の始まりから7年経った文明5年(1473年)、義尚が9歳で元服し、第9代将軍に就任します。まずは足利家の家督争いが終息したのです。
さらに両軍の大将である宗全と勝元が相次いでこの世を去り、やっと落ち着くかと思われたのですが、大内政弘は戦いをやめませんでした。ここまで争って何の成果もないまま終わらせられない、という考えだったのです。
こうなると、理由が曖昧というよりももはや意味のない戦いです。これがようやく終わりを迎えたのは文明9年(1477年)のことで、富子の働きかけにより義尚と義視が和睦し、引き分けとなったのでした。
普通、この時代の戦乱では、勝者が領地を手に入れたり、地位が上がったりするものです。しかし応仁の乱では誰も得をせず、室町幕府の信頼も地に堕ちる結果となりました。
それまで社会秩序を支えていた権威は失墜し、長引く戦乱の中でいつしか世の中は弱肉強食の無秩序状態となっていました。
もうお判りですね。さあ、みんな大好き戦国時代の始まりです。ここから武田信玄・上杉謙信・斎藤道三といった武将たちが登場し、覇権争いとなっていくのです。
参考資料
本郷和人『日本史の論点』(扶桑社新書)
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