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ごちゃごちゃして分かりにくい!、室町時代「応仁の乱」発生のきっかけと経緯、その結末を総まとめ

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瀬戸内海の利権もからむ

こうして持富が「義視派」に、そして義就が「義尚派」に加わることになりました。将軍家と畠山家の家督争い、それに有力大名の確執の全てが絡み合い、何がなんだか分からない中で争いの規模ばかりが大きくなっていきます。

さて当事者たちは、足利義尚・畠山義就・山名宗全の「西軍」、足利義視・畠山政長(畠山持富の子)・細川勝元の「東軍」に分かれました。図式的にまとめるとこうです。

【西軍】日野富子=義尚(足利の実子)=山名宗全=義就(畠山の実子)
【東軍】義視(足利の養子)=細川勝元=持富(畠山の養子)

争いの中心(大将)は山名宗全と細川勝元です。最初は将軍家が後ろ盾についた東軍が優勢でしたが、新たに守護大名・大内政弘が西軍に参戦し、ますます戦乱は激化しました。

なんで家督争いとは無関係の大内氏が首を突っ込んできたのかというと、山名宗全の盟友だったからというのもありますが、実は瀬戸内海の制海権を押さえたいという理由があったのです。

当時は、瀬戸内海の交易が盛んで、そこには日明貿易の利権もからんでいたので、これを押さえれば豊かな富が手に入ります。大内氏が狙ったのはそれでした。

もともと日明貿易は儲かるということで多くの大名がやりたがっていたのですが、明との貿易は将軍の名前がないとできません。そこで、幕府の実権を握って将軍を意のままに操れれば丸儲けというわけです。

大内が日明貿易にこだわるのには理由がありました。彼は自らを朝鮮王朝の子孫だと名乗り、朝鮮との交易も行っていました。また博多の商人との結びつきも強く、商業や貿易に強かったのです。

ここから、応仁の乱のコンセプトはますますおかしくなっていきます。むしろこの戦乱が火種になって、それまで溜め込まれていたケンカの火種が誘爆を起こしたのだと言えるかも知れません。細川と山名は瀬戸内海沿岸の分取り合戦に突入していきます。

3ページ目 やっと収束、そして戦国の世へ

 

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