みなさんは、落語がお好きですか?
江戸落語も上方落語もそれぞれに味があり、今でもたくさんの人に愛されている日本の伝統芸能です。しかし、江戸落語の祖と言われた鹿野武左衛門(しかの ぶざえもん)の人生は、波乱万丈そのものでした。
そこで、今回の記事では、そんな彼について詳しくご紹介したいと思います!
鹿野武左衛門(しかの ぶざえもん)とは?
鹿野武左衛門(しかの ぶざえもん)は、江戸時代前期に活躍した、江戸落語の祖と言われる人物です。
当時、上方では露の五郎兵衛が辻咄(つじばなし)を始めていましたが、江戸では同じころ鹿野武左衛門が辻咄を始めました。また、彼は芝居小屋など室内芸としての落語、「座敷仕方咄」を始めた人だとも言われています。
彼はもともと、大阪難波の出身(京の出身とも)と言われていますが、江戸に出てきて塗師をしていたとされています。
鹿野武左衛門とコレラ
鹿野武左衛門は、江戸落語の祖であると同時に、とある病気とも関係してその名を有名にしました。
その病気とは、コレラ。
コレラは当時(1693年・元禄6年)大流行し、1万数千人以上が命を落としたとされています。そのコレラについて、「南天と梅干の実が予防に良く効く」という風評が広がり、南天と梅干の値段があがる騒動にまで発展しました。
そして、その流言は馬が話したとどこからか語る者が現れ、その出どころは鹿野武左衛門が書いた『鹿の巻筆』の咄であったと彼らが述べたことから、武左衛門が大島に流罪(島流し)となってしまったのです。
この話も確かではないという説もありますが、彼が島流しになったあと、江戸落語は一字衰退し、烏亭焉馬により再興されるまで、約100年もかかりました。