東京 銀座や丸の内、日本橋…浮世絵で見て歩く華やかな明治時代の洋風建築【番外編】:2ページ目
ブリジェンスと喜助がタッグを組んで完成させた築地ホテル館
1862(文久2)年に日本とイギリスの間で交わされた覚書により、江戸が外国人に向けて開市されることとなった。それに際し、イギリス公使のハリー・パークスは訪れる外国人のためのホテルを建設するよう幕府に要請する。
しかし、当時の幕府は財政難。そこで勘定奉行 小栗忠順は「土地は無償で提供するので、幕府に代わってホテルを自費で建設・経営してくれる事業者はいないか。もちろん、経営による利益は全て事業者の物として良し。」という内容で呼びかけを行った。
この呼びかけに応じたのが、今回までの記事ではもうお馴染みの2代目清水喜助だ。喜助はブリジェンスとタッグを組み、1868(慶応4)年に江戸築地に築地ホテル館(正式名称「外国人旅館」)を完成させる。明治維新という多難な世情と重なったことから、開業は予定より1年ほど遅れた1869(明治元年)1月だった。
木造2階建て・高さ約18mの建物は、物見塔や客室の暖炉用の煙突・ベランダがあり、一見洋風のような外見。しかし外壁をなまこ壁にしたり、物見塔の窓を社寺や城郭まどに用いられる火灯窓にしたりと、日本伝統の技法も取り入れた和洋折衷の斬新なデザインである。
館内は客室102室と水洗トイレ・ビリヤード室・シャワー室・バーが備えられ、物見塔からは東京全景と江戸湾、遠くには富士山を展望できたという。
擬洋風建築の先駆けともいえる築地ホテル館は国内外から高評価を得ていたが、1872(明治5)年に起きた銀座大火により焼失。完成からわずか4年でその姿を消すことになった。