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藩主なのに脱藩して戊辰戦争を闘い抜いた「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【前編】

藩主なのに脱藩して戊辰戦争を闘い抜いた「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【前編】

激闘に身を投じた半年間

さて、相模湾を渡って真鶴(現:神奈川県真鶴町)に上陸した遊撃隊の面々は小田原藩(現:小田原市)に協力を求めます。

「共に徳川家を代々扶翼し奉った譜代の忠臣同士、力を合わせて薩長に立ち向かいましょうぞ!」

しかし、小田原藩主の大久保忠礼(おおくぼ ただのり)は金銭や食糧を提供するのみで、加勢を出してはくれませんでした。

「ふむ、致し方あるまい……しばらく様子を見ながら、粘り強く説得して参ろう」

遊撃隊は御殿場(現:静岡県御殿場市)に移動して陣を布くと、薩長新政府軍に追われた旧幕臣たちが続々と参集し、気づくと300名を超える一大勢力に成長します。

「作戦行動を効率的に展開するため、軍を四つに分けよう」

そこで、人見勝太郎が第一軍、伊庭八郎が第二軍、岡崎藩(現:愛知県岡崎市)を脱藩した元藩医・和多田貢(わただ みつぐ)が第三軍、そして忠崇は請西藩士を中心とした第四軍を率いるよう編成。

およそ一ヶ月ほど形勢を窺っていたところ、慶応4年(1868年)5月15日に江戸の上野で彰義隊(しょうぎたい。旧幕府軍)と薩長軍が衝突。後世に言う上野戦争です。

「今が好機、我らも後れをとるまいぞ!」

遊撃隊のうち第一軍と第三軍が先走って説得すべきだった小田原藩と戦闘を始めてしまい、もはや止められぬと見て第二軍と忠崇ら第四軍も参戦。

5月26日、遊撃隊と小田原藩は箱根山崎で死闘を演じ、一時こそ優勢となりながら結局は惨敗を喫し、這々(ほうほう)の体で館山(現:千葉県館山市)まで逃げ帰りました。

「まだだ!同志らは奥州へ転進してなおも抵抗していると言う。我らも急ぎ参るのじゃ!」

旧幕府老中の安藤信正(あんどう のぶまさ)より要請を受けて会津藩の救援に向かい、苦境を闘い抜きながら仙台まで後退します。

「このままではジリ貧だ……一気に蝦夷地(現:北海道)まで退いて態勢を立て直し、薩長軍を迎え撃つべきではないか?」

旧幕府軍の中にそうした声が上がる中、忠崇はなぜか戦意を喪失。

「聞けば徳川家はすでに70万石の所領が安堵され、大名としての存続が決定している以上、なお抗戦を続けることが徳川家を守ることにつながるのか……?」

もはや「徳川家を守るため」という挙兵の目的は達せられたため、忠崇は新政府軍に対して降伏を決断。

「「「殿が左様のお気持ちであれば、我らもお供仕る」」」

「皆の者、これまでよう戦うてくれた……」

かくして明治元年(1868年)9月、忠崇は激戦を生き残った元請西藩士19名と共に新政府軍へと降伏。

およそ半年にわたる戦さの日々は終わりを告げたのですが、忠崇の人生には、また新たな苦闘が待ち受けているのでした。

【後編に続く】

※参考文献:

  • 河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』扶桑社、2021年7月
  • 中村彰彦『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』中公新書、2000年9月
 

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