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幕末の超イケメンとして知られる織田信福…実は爆弾テロ犯だった!?

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夫婦仲良く爆弾づくり、いざ上京

ともあれ故郷に錦を飾ったその年、信福は亡き山崎立生の次女・山崎竹(たけ)と結婚。竹は高知女子師範学校を卒業していた才女で、夫や植木枝盛(うえき えもり)らの影響で自由民権運動に目覚め夫婦で身を投じることになります。

「畏れ多くも天皇陛下を蔑ろにし、私欲のままに政治権力を独占している政府要人らを爆殺すべし!」

「えぇ、あなた!」

かくして明治20年(1887年)、信福夫妻は同志らと共に爆弾を密造。義挙決行の時機を狙うべく上京しますが、テロ活動を阻止するために制定された保安条例の適用によって追放されてしまいます。

幸い爆弾は見つからなかったものの、成功の望みを失った以上、持っていても無用の長物。

「帰ろうか……」

「……えぇ」

信福らは帰り途上に爆弾を捨てていったそうですが、一ヶ所にまとめて処分しなかった辺り、せっかく作り上げた爆弾に再起の未練があったのかも知れません(あるいは、官憲に証拠をつかませないための用心だった可能性もあります。

エピローグ

その後、信福は歯科医に専念して大日本歯科医師会高知部会長や高知県歯科医師会会長などを歴任、高知県の医療充実に貢献しました。

一方、竹は明治21年(1888年)に高知婦人会を結成、女性の権利を求めて活発な言論活動を展開します。

プライベートでは、永らく子供がいなかったため明治26年(1893年)に養女の猪佐(いさ)を迎え、明治32年(1899年)には長女の富士(ふじ)が誕生。後に婿養子をとって家業を継がせました。

明治41年(1908年)6月10日に竹(享年42歳)と死に別れた信福は、自身も大正15年(1926年)1月13日に66歳で世を去ったのでした。

医学に志し、自由民権運動に挫折した織田信福。両極端のようでいて、どちらも「人々を安んずる」思いにおいて共通しており、それは今も土佐人の中に熱く脈打っていることでしょう。

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※参考:

 

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