大正〜昭和初期にマルチな才能で活躍した「小村雪岱」の洗練されたモダニズム:2ページ目
邦枝完二新聞小説の挿絵(その他)
細鋭な線とベタ(黒塗り)で描かれる絵のバランスの素晴らしさは、悲しさややるせなさといった人間の感情を静かにそして荒々しく描き出しているように思えます。
お傅地獄の色刷絵
浪之助「お伝」
伝「え」
浪之助「もっとこっちへ寄ンねえ」
伝「あい」
浪之助「おめえ夜っぴて俥で帰(けえ)って来た上に、あんな騒ぎをやったんで、
くたびれたろう」
・・・
市「お伝」
伝「あい」
市「おれ、どうでも気が済まねえかえら、やっぱりおめえは先へ帰(けえ)ンねえ」
伝「あたしを帰してお前さん、どこぞへ行く気じゃないのかえ」
・・・
上掲の2点の絵、背景にセリフが書き込まれているのがお分かりでしょうか。絵の下記にその一部を記してみました。
これは新聞小説『お傅地獄』の挿絵の何点かを色刷りし、新聞記事上では余白になっていた部分に小説の中のセリフを描き込んだものだと思われます。
この絵の色合いそして人物の居ずまい等々が既にそれだけで素晴らしい作品として完成しているものに、更に“文字”を描きこもうという発想自体が今で言う高度な“グラフィックデザイン”の感覚を感じさせます。
小村雪岱は5歳の頃、両親をなくし親戚を転々とした末に叔母の世話で日本橋檜物町に住む“書家”の安並賢輔の学僕となり後に養子となりました。多感な時代を「書」に接していたということは雪岱に大きな影響を与えたでしょう。
27歳の頃、小村雪岱は創設間もない「資生堂意匠部」に在籍し、装幀や雑誌そして和文ロゴタイプの作成に携わり、後に「雪岱文字」と言われるタイポグラフィを生み出しました。