戦国時代、京都を目指した大名たち…なぜ上京じゃなくて上洛と言うの?:2ページ目
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長安と洛陽…二つの都を東西に配した平安京
京都が日本の首都となったのは、平安京へ遷都が行われた延暦13年(794年)。歴史の授業では「鳴くよ(7・9・4)ウグイス平安京」と教わった記憶があります。
平安京は古代中国の都であった長安(ちょうあん)や洛陽(らくよう)を模して造られ、天皇陛下の御所(大内裏-だいだいり)から東西南の三方へ碁盤の目のように道が張り巡らされました。
大内裏の中央「朱雀(すざく)門」から真南の果てにある「羅城(らじょう)門」までのびて平安京を東西に分ける「朱雀大路(すざくおおじ)」を境に、その西側を「長安」、東側を「洛陽」と雅称(がしょう。オシャレに呼ぶこと)します。
これは中国大陸でも長安が西側、洛陽が東側にあることに由来するのですが、西側の「長安」は湿地が多く、住まうのに不便だったためか次第に寂れがちとなり、東側の「洛陽」が概ね京都全体を表すようになったそうです。
【まとめ】
かつて平安京の東側を古代中国の都である「洛陽」、西側を同じく「長安」と呼んでいたが、西側が廃れたため、東側の「洛陽」が京都全体を表す雅称となった。
それで京都へ上ることを「上洛」と言うようになったのですが、一つの都の中に二つの都を(名前だけとは言え)配置してしまう壮大なスケールに、かつて王道楽土を夢見て平安京を築き上げた人々の想いが偲ばれますね。
※参考文献:
高橋慎一朗『中世の都市と武士』吉川弘文館、1996年8月
国史大辞典編集委員会『国史大辞典 14 や-わ』吉川弘文館、1993年3月
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