豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【後編】:2ページ目
朽ちるにまかされた豊国神社と豊国廟
家康の真意は、豊国神社と豊国廟の徹底破壊にあったことに間違いないでしょう。
それが、人々の記憶から天下人・豊臣秀吉の面影を消し去る手段であり、武家の頂点が徳川家であることを意識付けることであったからです。
しかし、豊国神社と豊国廟の破壊は、秀吉の正妻・北政所おねの嘆願により見送られることになりました。
当時、高台院に暮らしていた北政所は、まだまだ大きな影響力を有していました。その意向を家康とはいえ無視することはできなかったのです。
豊国神社も豊国廟も今後一切手を付けずに、朽ちるに任せることで、合意に至りました。家康にとって、これが最大限の妥協であったことと思われます。
こうして、秀吉の痕跡は一応、京都から消し去られました。しかし、幕府にとって決して安心できるものではなかったのでしょう。
1640(寛永17)年、豊国神社と豊国廟を繋ぐ参道上に新日吉神宮(いまひえじんぐう)が再興され、豊国神社は破却されました。
豊国廟へのお参りの道が完全に閉ざされたのです。
この時に、秀吉ゆかりの寺院として残されていた祥雲寺(しょううんじ・秀吉の長子・鶴松の菩提寺)がかつて秀吉と敵対関係にあった根来寺に由来する智積院に置き換えられ、方広寺も縮小されました。
この後、豊国神社と豊国廟は人々に顧みられることなく、200年以上にわたり、まさしく朽ちるにまかされたのです。