豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【後編】:3ページ目
謎に包まれたままの秀吉の遺骸
豊国神社と豊国廟が復興されたのは明治に入ってからでした。明治天皇の命により、1875(明治8)年、豊国神社が方広寺大仏殿跡に再建されます。
現在の社殿はこの時のもので、国宝の唐門は伏見城の遺構とされ、南禅寺の塔頭・金地院から移されたものです。
豊国廟は、豊国神社に遅れること約20年、1897(明治31)年の秀吉300年祭に際し、整備の上、再興を果たしました。
だが、この整備中に驚きの発見がありました。秀吉の遺骸が異常な形で見つかったのです。
秀吉の遺骸はミイラ化していました。しかし、天下人であったにもかかわらず、粗末な瓶に押し込められていたのです。
副葬品の類は全くありませんでした。江戸時代の初めに見舞われた盗掘によるものと思われますが、詳しいことはわかっていません。
そして、遺骸は風化により、ボロボロと崩れてしまったとのことです。崩れた遺骸は、集められ再度埋葬されたとも、発見時の混乱の中で紛失してしまったともいわれています。
こうして、秀吉の遺骸は全くの謎に包まれたまま今に至っています。
しかし、秀吉の魂は今でも阿弥陀ヶ嶽山頂から天下を見守っていることは間違いないでしょう。
前後編にわたり、ご愛読をいただきありがとうございました。