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徳川家康に天下を取らせた戦国武将・藤堂高虎のフォロワーシップ【前編】

徳川家康に天下を取らせた戦国武将・藤堂高虎のフォロワーシップ【前編】

家康、高虎を知る

家康が高虎を知るのは、それから16年後のことになります。

時は1586年。織田信長が本能寺で命を落とし、豊臣秀吉が天下統一に向けて着々と歩を進めていた頃のことです。

当時、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃(愛知県西部、静岡県、山梨県、長野県)を領有する大大名であった徳川家康は、一度は豊臣秀吉と戦います。小牧・長久手の戦いと称されることになるこの戦いで家康は局地戦では勝利しますが、秀吉の巧みな外交手段によって動きを封じられ、最終的には秀吉に臣従する道を選びます。

そして秀吉に面会するために京を訪れるのですが、その際、秀吉は弟であり右腕でもあった秀長に命じ、家康のために屋敷を新築しました。

家康に対するおもてなしの心から出たものか、示威行為だったのか。いずれにせよ立派な屋敷を与えられた家康ですが、邸内に足を踏み入れると首をかしげました。

「おや、これは。聞いていたのと、ちょっと違うんじゃないか?」

すると工事の責任者が進み出ます。

「恐れながら、当初の設計では守りが手薄なところがございました。徳川様に万一のことがあっては一大事。我が主・秀長の面目にも関わることですので、独断で設計を変えました。ご不快とあらば、どうか私を罰してください」

「いや、そう言うことであれば、むしろお礼を申し上げるところです。でもこれ、元の設計より立派になってますよねこれ。ぶっちゃけ、予算とか大丈夫だったんですか?」

「ああ、それは自腹でなんとかなりました」

「自腹で」

その工事責任者こそが、秀長の重臣となっていた藤堂高虎でした。

ちゃんと上司(秀長)の了解を取ってから動けよって気がしますが、とにかく家康はこの一件で高虎のことを

  • 築城に関する知見
  • 主君に対する忠誠心
  • 必要なことを自分で判断して動ける主体性

の持ち主として、記憶に刻んだものと思われます。そして、以降は親しく交際するようになったのです。

3ページ目 高虎、家康を支持する

 

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