優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【後編】
信長に対する自らの優柔不断さが災いし、結果的に一族滅亡の運命を辿った朝倉氏11代当主「朝倉義景」。【後編】では義景の煮え切らな態度の理由を考察していく。
これまでの記事
優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】
戦国期。平安時代末期から続く名門一族「越前朝倉氏」は、織田信長率いる織田軍によって本拠地を蹂躙され滅亡した。朝倉氏滅亡時の当主「朝倉義景(よしかげ)」には様々な言い伝えが存在するが実際はどのような人物…
優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【中編】
戦国大名朝倉氏最後の当主「朝倉義景」。結果的に一族は滅亡することになるが、その原因には当主・義景の気質が深く関わっていた可能性が否めない。今回は【前編】に続き、優柔不断といわれた義景の行動を考…
信長討伐に集中できなかった原因とは?
・北陸情勢の憂い
義景が当主の座についた1548年当時、越前国を取り巻く情勢は決して安定したものではなかったという。本願寺門徒が中心となって起こした加賀一向一揆は、度々朝倉氏と対立し義景を悩ませた。義景は常に一揆勢の動向に注力する必要があり、信長との戦に集中することができない状態にあったことが推察できる。
・家中の不安分子
朝倉家内部も一枚岩ではなかったようだ。中でも義景の従弟にあたる「朝倉景鏡(かげあきら)」との軋轢は大きかったとされる。
景鏡は当主名代として総大将を任されることもあった人物で、義景に次ぐ権力を保持していた。景鏡の父・景高と義景の父・孝景は不和であり、景高は謀反を企てたが失敗し没落した経緯があった。
父親同士の遺恨のままに義景と景鏡の関係性も悪く、景鏡は1573年の織田軍に対する出陣を拒否するなど、軍事行動面での非協力的な態度が目立った。最終的には義景を裏切り信長に本領を安堵されている。
義景にとって家中の問題は最重要課題であり、そのことが自身の積極的出陣の足枷となっていた可能性は十分だろう。
ページ: 1 2