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アルコール依存症で早死? 関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将「小早川秀秋」の死因を考察【前編】

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小早川家へ

有力な後継候補であった秀秋だが、1593年、秀吉に待望の実子「豊臣秀頼」が誕生すると立場が揺らいでゆく。秀吉の秀頼に対する溺愛ぶりは有名で、多くの後継候補や養子関係を解消したという。もちろん秀秋も例外ではなかった。

その後、秀吉の家臣・黒田官兵衛の仲介で、実子のいなかった毛利輝元の元に養子として送られる計画が浮上。結果的に毛利本家ではなく、毛利元就の三男・「小早川隆景」の養子となる。1594年、「小早川秀俊」と名乗った。

この頃に毛利輝元の養女であった「古満姫」と結婚。「秀秋」と改名したのは養父である隆景が死亡した1597年のことである。

関ヶ原

秀吉の死後、徳川家康と豊臣家臣の筆頭・石田三成の対立を軸に関ヶ原の戦いが開戦。秀秋は筑前・筑後59万石の大名として合戦に臨んだ。

「西軍」として戦った秀秋だったが、合戦の最中に突如として「東軍」に寝返る。秀秋の裏切りによって形勢が変わり西軍は敗北。戦功により旧宇喜多秀家領の岡山に加増・移封。戦後まもなく秀秋から「秀詮(ひであき)」へと改名している。

関ヶ原の戦いから2年後の1602年に死亡。享年21歳。秀詮には実子がいなかったため、小早川家は改易されている。

【後編】では秀秋の具体的な死因について考察する。

 

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