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大正時代まで遡る国産マカロニ誕生秘話 〜マカロニ生産にかけた親子3代にわたる熱い想い

大正時代まで遡る国産マカロニ誕生秘話 〜マカロニ生産にかけた親子3代にわたる熱い想い:2ページ目

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2020/11/24

マカロニ生産は子に代替わり

苦心の末ようやく完成した製造法ですが、その5年後に欧州大戦(第一次世界大戦)が勃発。アメリカから大量の注文が殺到したのも束の間、大戦が終わって不景気がやってくると、工場の経営が困難になってしまったといいます。

この大変な時期に吉治が病気で亡くなり、子の吉郎さんに代替わりします。世代が変わっても、なかなか困難な時代は終わらず、7年もたつうちに工場が人手に渡り、残ったのは多額の借金だけでした。妻子を実家に残して裸一貫で再スタートした吉郎でしたが、新工場を水害でだめにしてしまうなど、不幸が続きます。

1932(昭和7)年の夏、ようやくインフレ景気を迎え、アメリカからの大量注文が夜となく昼となく舞い込むようになり、事業が再び軌道に乗るようになります。ところが、マカロニの生産は太平洋戦争が始まると一時製造を中止してしまいます。終戦後再び復活し、吉治の孫の代には、先代吉郎の製法に改良を加え、1952(昭和27)年には月産10トン、1975(昭和50)年には30トンを生産するまでに成長します。

マカロニの国内生産発祥・加茂市

1959〜1960年くらいだと、マカロニ360g入り1袋で120円くらいで買えたそうですが、その当時、地方ではマカロニに具を混ぜるといった食べ方があまり浸透しておらず、お土産か何かで貰ったという人から「どうやって食べたらいいのか」という問い合わせがよく来たそうです。

石附吉治がその草分けを担った国産マカロニ生産は、その後加茂市の主要な産業のひとつなり、地元の複数の工場が生産に携わるようになりました。しかし、1970年代にかけて、大手メーカーによって大量生産技術が確立され、それまで小さな町工場で時間をかけ丁寧に作っていたマカロニは、次第に下火になっていきました。

現在、新潟県内に住んでいる人でも、加茂市がマカロニの国内生産発祥の地ということを知る人は多くありません。

それでも石附吉治とその子孫たちが苦労しながら開発した国産マカロニの生産は、間違いなく日本社会に浸透し、流通するきっかけになったのです。

技術革新とともに失われてしまったもの、歴史にもまた目を向けることによって、新しい道が開かれるのかもしれません。

参考

  • 『加茂市史 資料編5 民俗』(加茂市史編集委員会 2018)
  • 『加茂市史 資料編6 文化財』(加茂市史編集委員会 2020)
 

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