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滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その4】

滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その4】:2ページ目

山中幸盛の死

幸盛は人質として毛利輝元の元へ護送されることになった。尼子再興軍の中心的人物として活躍した幸盛が当主・勝久と共に自刃の命を受けず、人質となった理由はわかっていない。

幸盛も勝久らと運命を共にすることはなかった。一説には、上月城を包囲した毛利軍の宿敵「吉川元春」や「小早川隆景」と差し違えるつもりであったなど、様々な見解がなされている。

しかし、護送途中の備中国合(現在の岡山県)で、毛利家の家臣「福間元明」によって誅殺された。享年は34とも39ともいわれる。幸盛の死によって尼子再興運動は潰えた。

【幸盛の武功】

1577年、信長の嫡男・信忠に従った戦では、信長に対して謀反を起こした「松永久秀」の信貴山城を攻め、久秀の家臣「河合将監」を一騎討ちで討ち取る武功を残している

1578年には上月城に入城した再興軍は宇喜多軍によって攻められるが、幸盛は寡兵で宇喜多ぐんを夜討ち。返り討ちに成功した。

最後の章では幸盛の逸話や、山中家および尼子家のその後をご紹介してゆく

【その5】へ続く

 

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