滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その4】
毛利軍によって主家である尼子家を滅ぼされた家臣「山中幸盛」は、生涯をかけて尼子家の再興に尽力した。二度の再興運動はあと一歩というところで撤退を余儀なくされる歯痒い結果に終わる。
京に上洛した幸盛は織田信長の後ろ盾を得ることに成功。三度目の再興運動に舵を切った。
これまでの記事
滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その1】
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滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」の伝説【その2】
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滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」の伝説【その3】
毛利軍によって滅亡に追い込まれた戦国大名尼子家。今回は【その2】に引き続き、「山陰の麒麟児」と謳われ、尼子家の再興と打倒・毛利に生涯を捧げた男、「山中幸盛」の伝説をご紹介する。前回の記事[…
第三次尼子再興運動
織田軍の後ろ盾を得ることに成功した幸盛は、信長の家臣であった「明智光秀」の傘下に入る。
1576年から77年にかけて光秀軍や織田信忠軍(信長の嫡子)に従軍し、現在の兵庫県や奈良県周辺を転戦。数々の武功をあげた。
1578年、播磨攻略を任されていた「羽柴秀吉」が毛利方の「上月城」を落とすと、従軍していた幸盛は主君・尼子勝久と共に入城を許される。幸盛を中心とした尼子再興軍はこの上月城を拠点として、三度目の尼子家再興運動を本格化してゆく。
上月城は地理的な特徴上、敵の襲撃を受けやすい城であり、再興軍は毛利軍の容赦ない攻撃を受けることになる。幸盛は持ち前の腕で奮戦するが、秀吉本軍が他城の攻略に手間取る間に毛利軍30,000に上月城を包囲されてしまう。
2~3,000の兵力で籠城する再興軍は秀吉本軍の救援を待ったが、秀吉は他城の攻略を優先する信長の意向に従い救援を断念。結果的に見捨てられ孤立無援となった再興軍は降伏。
降伏の条件として当主・勝久、嫡男豊若丸、勝久の兄弟の氏久、通久は自刃。僧から還俗し、尼子家当主となった勝久は25年の生涯を終えた。
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