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江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その2】

江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その2】

宗春(尾張徳川家)と吉宗(紀州徳川家)

8代目徳川将軍の座についた紀州徳川家出身の吉宗。吉宗の将軍就任以降、紀州徳川家は栄華を極め、14代目の家茂まで7代を通して紀州家の血脈が将軍職を独占した。

この吉宗の将軍就任が尾張家と紀州家の運命を大きく変えてゆくことになる。

1730年、尾張徳川家では8代将軍吉宗と将軍職を争った6代藩主の継友が没し、弟の「徳川宗春」が7代目として尾張徳川家の藩主となる。

 

吉宗は「質素倹約」を旨とし、増税や幕府権力の再興に努めた(享保の改革)。この改革を受けて結果的に財政は安定するが、庶民にも質素な生活を強いたため文化は停滞した。

一方、尾張徳川家の藩主宗春は「規制緩和」を旨とし、吉宗が禁止していた芝居や祭りを積極的に奨励。行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめるとして、将軍家とは正反対の政策を進めた。

宗春は幕府の法令に従い表向き対立姿勢は示していないが、尾張徳川家の政治政策は明らかに時の幕府の方針に逆行するものであり、その裏には紀州家に対する反発や反感があったのではないかとも考えられている。

【その3へ続く】

 

 

 

 

 

 

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