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伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【2/4】

伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【2/4】

相次ぐ不幸……出家した阿南姫が女城主に

「あなた、しっかりして下さいまし!いくら行親が利発とは申せ、家督を継ぐには、まだあまりにも早すぎますれば……!」

天正九1581年8月26日、夫の二階堂盛義がまだ30代という若さで急死(※)してしまい、家督はまだ12歳だった次男・行親が継承します。

(※前年、田村氏との御代田合戦に勝利するも負傷、その時の怪我が原因とも言われています)

阿南姫は夫の喪に服するため、出家して大乗院(だいじょういん)と名乗りますが、不幸は往々にして続くもので、翌天正十1582年には恃みの行親までもが父の後を追ってしまいました。

「夫に続いて、そなたまで……っ!」

二階堂家に残っていた男児は三男・二階堂行久(ゆきひさ。生没年不詳)と、父と入れ替わるように生まれた四男・二階堂行栄(ゆきひで。天正九1581年~没年不詳)ですが、いずれも病弱だったのか、幼いことを差し引いても家督を継がせられる状態ではなかったようです。

「……かくなる上は、私が二階堂の家を継ぐよりありませんっ!」

大乗院は重臣の須田美濃守盛秀(すだ みののかみ もりひで)や箭部義政(やべ よしまさ)らの補佐を受けながら、須賀川城主として二階堂家を切り盛りすることになるのですが、気丈に努めていた矢先、今度は長男の蘆名盛隆が、家臣によって斬殺されたとの凶報に接します。

「……っ!」

聞くところによれば、下手人は盛隆が寵愛していた大庭三左衛門(おおば さんざゑもん)という美少年で、痴情のもつれから犯行に及んだとのことです。

時は天正十二1584年10月6日、つい先月(9月4日)に嫡男・蘆名亀王丸(かめおうまる)が生まれ、大乗院も「初孫が出来た」と喜んだばかりなのに……。

わずか生後1ヶ月で蘆名家の第19代目を継承した亀王丸ですが、天正十四1586年11月21日、疱瘡にかかり儚くなってしまいました。

「いったい何の因果で、こう不幸ばかりが続くのでしょうか……!」

喪の明ける暇がない大乗院でしたが、悲しみにくれる暇もなく蘆名家の後継者争いに巻き込まれていくのでした。

【続く】

※参考文献:
芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年
垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年

 

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