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貴族から盗賊へ闇落ち…悪へ染まった平安貴族・藤原保輔の悪行の数々

貴族から盗賊へ闇落ち…悪へ染まった平安貴族・藤原保輔の悪行の数々

悪行の果てには…

郎党により、先述した犯行を踏まえて保輔は15回も犯行に及んだことが判明したので、朝廷は「逮捕した者には恩賞を与える宣旨」を出し、本格的な保輔逮捕に乗り出します。

しかし、なかなか見つけることができずにいたので、保輔を誘き出すために父の致忠を監禁しました。

保輔はこの事態に危機を感じたので、花園寺(はなぞのでら)で出家します。そして、友人の藤原忠延の元を尋ねましたが、密告され逮捕されました。

逃げることができない状態となった保輔は最後の抵抗として、刀を自らの腹に刺して腸を引きずり出して自殺を図ります。しかしすぐには死ねず、翌日獄中で保輔は息絶えました。

保輔のそのような死に方は日本最古の切腹の事例となっています。

最後に

平安貴族のイメージはお淑やかで争いを好まない印象を強く持っていたので、藤原保輔のような貴族から盗賊に堕ちていった人物がいたことで平安貴族のイメージが覆ります。

当時は権力争いが盛んにおこなわれていたので、そのような勝った負けたの負の部分があったからこそ保輔のような人物ができてしまったと考えることもできそうです。

参考:関幸彦『武士の原像 都大路の暗殺者たち』

 

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