信長側からみて明智光秀はいつ登場した?織田信長の家臣が記した貴重な史料「信長公記」:4ページ目
本能寺の変、直前の行動は?
本能寺の変は1582年、信長49歳の時。その年の5月15日には、徳川家康と武田側から寝返った穴山梅雪という人物を接待するため、光秀は接待役を仰せつかっています。二人は武田家滅亡の際に武勲をたて、信長から領土を治めることを許されたので、そのお礼として上洛したのでした。
ドラマやフィクションではよくこのときに、接待に何か不備があって信長に叱責されたことが、謀反の理由の一つとされることが多いです。しかしこの伝記では「光秀は京都や境で珍しい食料を調達し、大変気を張って三日間接待した」とだけあり、信長から不満をかったとは書いてありません。
接待終了の5月17日には、安土から自分の城がある坂本に帰っています。信長が次に中国地方の進出を狙っていたため、その戦準備として戻ったのでした。
そして5月26日、明智光秀は坂本を出発し、丹波亀山城に到着。27日、城から近い愛宕山(現在の京都府嵯峨)にある愛宕神社へ参詣して一晩過ごします。このときに気を静めていたのか謀反を決断したのか、二度も三度もお神籤をひいたところを見られています。
28日にはそこで連歌の会を催し、百韻を神前に納めて丹波亀山城に戻っています。そして信長が上洛する5月29日を待ち、6月1日夜に京都の市街地にある本能寺を襲撃したのでした。
本能寺に着いたのは明け方です。一晩駆け抜けて討ち取ったというわけです。ドラマでは深夜のように描かれることがありますが、それも演出の一つですね。
さて、結局『信長公記』を読んでも謀反の謎はわかりません。信長も、明智謀反の報を聞き「やむをえぬ」とだけ発したとしか書いてありません。いつから謀反を企てていたのかはわかりませんが、連歌の会で詠んだ句にヒントがありそうです。
「ときは今 あめが下知る 五月かな」
《五月雨の降りしきる今こそ、土岐氏の血を汲む明智が天下をとるときだ・・・》という意味が隠されているといいます。土岐というのは清和源氏の流れを汲む軍事貴族の系統で、美濃を中心に栄えた武家のこと。明智家もその庶流です。
室町時代は守護大名として栄えた土岐家。それを自分の手で再興したいとずっと胸に秘めていたのでしょうか。
安土城が竣工した1579年から、本能寺の変まではたったの3年。信長はこの年の3月に武田家を滅亡させ、4月に甲斐の恵林寺の焼き討ちも行っています。
まさに信長の人生は息つく暇もない戦いの連続だったといえますね。
このとき齡60近かかったといわれる光秀は、そんな戦乱の世を終わらせたいと考えたのでしょうか。
ちなみに伝記は、信長の死を知った徳川家康が急いで大坂を離れるところで終わっていました。