信長側からみて明智光秀はいつ登場した?織田信長の家臣が記した貴重な史料「信長公記」:2ページ目
武功は?
その後もちょくちょく光秀の名は出てきます。
六条の合戦の一年後(1570年)には、朝倉勢との戦いで、手筒山城を攻略するため武藤有益という武士から人質を取ってくる任務を果たしたり、将軍・足利義昭が信長に謀反を起こした1573年には、その手下の者が築城した「石山の砦」を攻撃しています。
ちなみに手筒山城のくだりでは、豊臣秀吉が木下籐吉郎の名で登場しています。
足利義昭は一度和睦するもののすぐに信長に反旗を翻し、光秀は将軍側の山本津島守が籠城している城を包囲。
その後「木戸・田中」という敵城を信長側が降参させた後、光秀に両城を授けています。それだけ信頼があったということでしょうか。
そしてこのとき足利義昭は敗北して室町幕府が終わりを告げました。光秀は室町幕府の終焉を、信長側から目撃しているわけです。
その後1579年、安土城(現在の滋賀県近江八幡辺り)が完成した年には丹波(現在の京都府亀岡市辺り)と丹後(現在の京都府宮津市辺り)を平定、翌年には丹波の領地を与えられています。
信長は「長年丹波に陣を張り、戦果を挙げたことは比類ない功績である」と光秀を誉めています。よもやこの3年後に光秀が謀反を起こすとは、考えられなかったことでしょう。
こうしてみると、明智光秀はじょじょに存在感を増していったといえるでしょう。