破天荒で壮絶な人生を駆け巡った戦国時代の武将「松永久秀」:その1
「魔王」と恐れられた織田信長。その信長が家康に紹介するとき、「この男は、常人にはできない、天下の大罪を三つも犯した」といわれた男がいます。
その名は松永久秀(まつなが ひさひで)(別名:松永弾正)。
久秀は畿内などを支配した三好長慶の家臣として活躍し、信貴山城を居城として大和を支配しました。1561年には現在の奈良市の辺りに多聞山城を築きます。
日本において天守閣を持つ城は、この多聞山城が初めてとされています。壁は白壁、屋根は瓦葺で石垣も用いられ、のちに「多聞櫓」といわれる造りの四階建ての櫓もありました。
やがて、三好一族に不幸が次々と降りかかります。長慶の弟である十河一存が多聞山城築城の同年に病死。翌年にはその弟の三好実休が戦死。さらに1563年、長慶の嫡男である三好義興も22歳の若さで病死。その後、長慶は弟の安宅冬康を謀叛の疑いで殺害。2か月後に長慶自身も病死します。
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