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豊臣秀頼は二人いた!? 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【四】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【四】:2ページ目

小牧・長久手の戦いで敵を調略、秀吉の逆転勝利に貢献!

さて、信長亡き後、織田政権の後継者として頭角を現した秀吉ですが、元々は百姓上がりの「猿」に従うことを快く思わない政敵は数多く、秀吉はそれを一人ひとり誑(たら)し込んだり、討ち滅ぼしたりと多忙な日々を送っていました。

織田家中でも逸早く秀吉の可能性に賭けて臣従した秀頼も、水面下での工作に奔走しましたが、中でも最大の働きと言えば、秀吉にとって最大のライバルである徳川家康(とくがわ いえやす)を相手に繰り広げた小牧・長久手の戦い(天正十二1584年3月~11月)でしょう。

家康が、信長の遺児でありながら蔑ろにされて秀吉を恨んでいる織田信雄(おだ のぶかつ)を担ぎ上げたことで始まったこの戦は、かつて信玄公より「海道一の弓取り」と称賛された戦上手の家康を前に苦戦を強いられます。

真正面からぶつかっては勝ち目がない……そこで秀吉は家康&信雄連合軍の元に集まった諸将の調略(寝返り工作)を図ります。

ここで秀頼は手腕を発揮、信雄の家臣である毛利小三郎広盛(もうり こさぶろうひろもり)をはじめ、武田の旧臣・木曾伊予守義昌(きそ いよのかみよしまさ)とその重臣・山村勘兵衛良勝(やまむら かんべゑよしかつ)を寝返らせるなど、反・秀吉勢力をじわじわと斬り崩していきました。

そうした努力が功を奏して、ついに家康が戦う大義名分にして反・秀吉勢力の筆頭格であった信雄までが秀吉に手懐けられてしまったため、家康は渋々和睦。これによって秀吉(※)の政権継承は確定的なものとなったのです。

(※)秀吉は大義名分として信長の嫡孫(嫡男・信忠の遺児)である三法師(後の織田秀信)を担ぎ上げていましたが、あくまで傀儡に過ぎませんでした。

かくして秀頼たちの働きによって反対勢力を一掃した秀吉は、天下統一に向けてより一層邁進していくのでした。

【続く】

参考文献

  • 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年
  • 谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
  • 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年
 

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