性欲には勝てず…戦国時代「大坂の陣」でとんでもないことをやらかした武将・薄田兼相のエピソード:2ページ目
豪傑でも性欲には勝てず…
秀吉の死後は豊臣秀頼に兼相は仕えます。やがて豊臣家と徳川家の対立は避けられることができなくなり、慶長19年(1614)大阪冬の陣が勃発します。
豊臣軍は来たる徳川軍に向けて大坂城の付近に砦を造ります。その中で最大なものが木津川の辺りに作られた博労淵砦(ばくろうぶちとりで)でした。
最大ともあって博労淵砦は器量のある者が守るべきとの声もあり、抜擢されたのは兼相でした。
徳川軍は博労淵砦に苦戦を強いられたので、夜襲を仕掛けて攻め落とすことにします。銃弾が飛び交う中、徳川軍は木津川を渡河し博労淵砦に辿り着きます。
徳川軍が博労淵砦に攻撃をしている中、肝心の兼相はというと何と遊郭にいました。兼相が遊郭で酒と女に浮かれ不在だったので兵の統制が取れず、博労淵砦は陥落してしまいました(博労淵の戦い)。
このような失態から兼相は「橙武者」と罵られることになります。橙は酸味が強く食べられないため、正月の飾りにしか使えない「見掛け倒し」という意味合いで使われました。