生きていくために。明治の世、職業を失った元武士たちが手がけた様々な名産品とは?
大河ドラマ「西郷どん」は明治に突入。新政権側の武士も佐幕側の武士も、まさか武士の世がこれほど急速に終わるとは思っても見なかったことでしょう。秩禄処分で、突然家禄という給料を失った武士たちはどのように生活の活計(たずき)を得ていたのでしょうか。
実は誰でも聞いたことのある、あの有名な名産品が、元侍たちの手によるものだったのです。
木彫りの熊は尾張の殿様が考えた
「誰かしらの家には必ずあった」北海道土産の木彫りの熊。実は尾張徳川家の当主であった徳川義親が深く関わっています。
尾張家は徳川御三家であるにも関わらず、戊辰戦争では新政府側に与していました。そのため尾張徳川家は「公爵」の位を与えられましたが、元藩士たち全員を養えるわけもなく、北海道八雲町に開墾入植させ「徳川農場」で雇い入れていました。
義親は大正10年から大正11年にかけて欧州旅行に赴き、立ち寄ったスイスのベルンで熊の木彫りに出会い、それを見て藩士たちの副収入になるのではとひらめき購入。帰国後「木彫りの熊」の生産を積極的に推奨しました。
木彫りの熊は北海道の厳しい寒さで家にこもる冬に、丁度いい内職となり、また生活の慰めになったのです。
そして大正13年、第1回八雲農村美術工芸品評会に初めて出品。昭和2年には秩父宮雍仁親王に献上されるなど、熊は次第に「北海道土産」の代表格として世に認知され始め、昭和初期には年間5000体が生産されたといいます。
また八雲町とは別に、旭川市でもアイヌの松井梅太郎が始めた熊彫刻が盛んになりました。昭和天皇が北海道を行幸した際には、2つの町からそれぞれ木彫り熊が献上されたということです。
しかし戦争の影響で八雲村ではほとんどの人が辞めてしまい、戦後昭和30年には2人だけ、後を継いだのも3人のみになり、そして最後の熊彫刻家は2013年に死去した加藤貞夫でした。
「北海道といえば熊彫り」の歴史を伝える存在として、八雲町には「八雲町木彫り熊資料館」があります。また、資料館近くの公民館の敷地には発祥を記す記念碑が建立されています。