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【豊臣兄弟!】あさひ急死の裏で強行…秀吉が徳川へ送った「第二の身代わり」6歳の幼子・小姫の儚い生涯

【豊臣兄弟!】あさひ急死の裏で強行…秀吉が徳川へ送った「第二の身代わり」6歳の幼子・小姫の儚い生涯

豊臣家から人質として徳川家康(松下洸平)に輿入れしたあさひ(旭姫。倉沢杏菜)ですが、やがて彼女は母なか(大政所。坂井真紀)の見舞いと称して京都へ帰り、そのまま世を去ることになります。

詳しくはこちらの記事をご覧ください。

【豊臣兄弟!】あさひ(倉沢杏菜)が家康と強制結婚!悲劇的な末路の真相、引き裂かれた夫婦の絆…

小牧・長久手の戦い以来、ずっと対立が続いている中、徳川家康(松下洸平)は和睦の条件として豊臣家の身内を妻として差し出すよう要求してきました。家康との和睦のひとつのきっかけになった「天正の大地震…

家康としては豊臣家に臣従した以上、人質をとっておく必要がなくなったから実家へ帰したのでしょう。

しかし秀吉(池松壮亮)としては、豊臣政権を維持するため、徳川家との関係を強固にしておく必要がありました。そこであさひの身代わりとして、新たな姫を徳川家へ輿入れさせることにします。

小姫(おひめ)と呼ばれた彼女は、一体どんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

あさひの死を秘して祝言強行

小姫は天正13年(1585年)または天正14年(1586年)に織田信雄(山脇辰哉)の娘として誕生しました。

天正15年(1587年)に九州平定から凱旋した秀吉が大坂城で盛大な宴を催した際に、信雄から養女にしたと考えられています。

どうせ秀吉のことですから、織田家の血筋を家系に入れたいからと半強制的に召し上げたのが実態でしょう。

自分の養女とした上で他家へ嫁がせる先は徳川家、その相手は徳川長丸(ちょうまる)すなわち家康嫡男の徳川秀忠(ひでただ)でした。

そうと決まれば話は早い。かくして天正18年(1590年)1月21日、当時5~6歳だった小姫は、当時12歳の長丸と京都の聚楽第で祝言を挙げました。

ちなみに1月14日にはあさひが世を去っていますが、秀吉はその死を式が終わる23日まで秘匿しています。

「出戻りのあさひなど知ったことか。豊臣家の次世代がかかった小姫の祝言にケチがついてはならんのじゃ!」

……とまで言ったかはともかく、秀吉としては、それだけこの祝言に賭けていたと言えるでしょう。

ちなみに当時の婚姻適年齢は、女性だと8歳からとされていました。まだ幼かった小姫は、この時点で婚約状態だったとする見方もあるそうです。

なおこの年の7月13日に実父の信雄が改易されてしまいましたが、小姫は変わらず秀吉養女として遇され、京都の聚楽第で北政所(寧々。浜辺美波)に養育されたと言います。

しかし天正19年(1591年)7月9日、小姫は世を去ってしまいました。その翌8月5日には秀吉と茶々(井上和)との間に生まれていた豊臣鶴松(つるまつ)も世を去り、北政所も腹痛のため2週間寝込んでいたらしく、伝染病が蔓延していた可能性が指摘されています。

茶々と秀吉の“初めての子” 鶴松に関して、こちらの記事で詳しく紹介しています。

【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望

小谷城で父(浅井長政)を討ち、北之庄城で母(お市)を奪った羽柴秀吉(豊臣秀吉/池松壮亮)に養われていた茶々(井上和)は、やがて秀吉の側室となりました。そして天正17年(1589年)に秀吉の嫡男…

小姫の法要は天瑞寺(京都市北区。廃寺)で執り行われ、甘棠院殿桂林宗香禅定尼(かんどういんでん けいりんそうこう ぜんじょうに)の戒名が贈られました。

相次いで我が子を失った秀吉の悲しみは大きく、その晩年に大きな影を落としたことでしょう。

2ページ目 神様として大坂城内に祀られる

 

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