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「日出づる処の天子」に煬帝が激怒…は本当か?遣隋使の真相と蘇我馬子の狙いとは

「日出づる処の天子」に煬帝が激怒…は本当か?遣隋使の真相と蘇我馬子の狙いとは

煬帝は本当に激怒したのか?「日出づる処の天子」と裴世清派遣の狙い

六〇七年、小野妹子が第二次遣隋使として隋へ渡りました。この時、倭(日本)から送られた国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な一節が記されていました。

そしてこの一節を見た隋の皇帝・煬帝が激怒したという逸話があります。中国では天子といえば皇帝を指すことから、倭の君主を同じ呼び方をしたことが問題になったとされるのです。

※当時の話題に関して、下記記事もぜひご覧ください。

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とはいえ、この有名なエピソードには不自然な点もあります。当時の倭は隋と比べれば小国であり、その国から来た使者の国書に対して、煬帝が本気で怒ったりするでしょうか。

なにより重要なのは、その後の隋の対応です。六〇八年、小野妹子が倭へ帰る際、煬帝は裴世清という官僚を返礼使として同行させています。

さらに裴世清に託した外交文書には、隋へ使節を送ったことへの煬帝からの感謝の言葉が書かれていました。

もし煬帝が本気で激怒していたのなら、こうした対応をするとは考えにくいです。激怒したのは本当かも知れませんが、大国の王としては取るに足らないことと割り切ったのではないでしょうか。

おそらく隋は、倭との関係を保ちながら周辺の情勢を調べようとしていたのです。

隋が朝鮮半島でに警戒していたのは高句麗であり、返礼使の派遣には、倭と高句麗の関係を確認する意図があったと思われます。

2ページ目 隋の使者を迎えた「謎の有力者」とは?遣隋使を動かした真の立役者へ

 

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