「日出づる処の天子」に煬帝が激怒…は本当か?遣隋使の真相と蘇我馬子の狙いとは:2ページ目
遣隋使を率いた蘇我馬子の外交手腕──単なる使節ではなく「留学制度」だった
さて六〇八年、裴世清は小野妹子とともに倭へ到着し、大和で推古天皇に隋の国書を伝えました。
このとき『隋書』には、裴世清が年老いた男性の有力者と会ったことが記されています。
この人物が誰だったのかははっきりしませんが、蘇我馬子だった可能性が高いです。推古天皇は祭祀を司る立場だったため、外国使節と直接会わなかったと推定されるからです。
そして六〇九年に裴世清が隋へ戻ると、今度は小野妹子も送迎使として同行しました。この時は、さらに高向玄理、僧の旻、南淵請安ら八名も第三次遣隋使として加わっています。
ここで注目したいのは、毎年これほど頻繁に人の行き来があったということは、遣隋使が単なる外交使節ではなかったという点です。
おそらく倭には、当時の先進国だった隋へ人材を送り、政治や文化を学ばせるという目的もあったのでしょう。
つまり、遣隋使には留学制度という側面もあったわけです。
こうした外交を進めた中心人物として重要視されているのが、先述した蘇我馬子です。彼は継体王朝以後、倭と中国との外交を進め、隋から政治や文化を学ぼうとした指導者でした。
さらに馬子は、その知識を国家制度の整備へつなげました。その成果として、有名な冠位十二階や憲法十七条の制作がなされたのでしょう。
厩戸王(聖徳太子)の失敗談ではない?見直される古代日本のリーダー像
しかし、蘇我馬子を遣隋外交や国家づくりの中心人物として見る考え方は、昔から主流だったわけではありません。
かつての日本史では、推古天皇が即位し、その甥にあたる厩戸王、つまり聖徳太子を摂政として政治を任せたと教えられていました。
法隆寺の建立や冠位十二階、憲法十七条、遣隋使の派遣などは、この厩戸王の業績として教科書に記されていました。
よって、煬帝へ送った「日出づる処の天子」に始まる国書も厩戸王の功績とされてきました。この文脈で読み取っていくと、国書によって煬帝が激怒したというエピソードは厩戸王の失敗談ということになります。
しかし現在では、これら全てが一人の人物による仕事だとは考えられていません。遣隋使を利用して倭の外交や国家づくりを進めたのは蘇我馬子だった可能性が高く、少なくともその中心人物の一人だったと思われています。
このように遣隋使のエピソードひとつを取っても、煬帝が激怒したという逸話や、それが本当に厩戸王の業績だったのかという点など、現在は多くの点が再検討されているのです。
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参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC




