【豊臣兄弟!】2度の改易から復活した武将・多賀秀種とは?豊臣秀長に仕えた半年間と波乱の生涯
羽柴小一郎(仲野太賀)の生涯を描く、大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、描き切れないほど多くの家臣たちが小一郎の活躍を支えていました。
今回は小一郎に仕えた家臣の一人、多賀秀種(たが ひでたね)を紹介します。
小一郎に仕えた期間はわずか半年。
しかし彼の人生は、2度の改易(所領没収)に見舞われながらもその都度這い上がった、波乱に満ちたものでした。
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改易されて兄に仕える
多賀秀種は永禄8年(1565年)、織田家臣である堀秀重(ひでしげ)の次男として誕生しました。
幼名は源千代、元服して通称を源助(源介)、諱は政勝→秀家→秀種と改名しています。
天正8年(1580年)に同じく織田家臣の多賀貞能(さだよし)に婿入りし、多賀秀種と名乗るようになりました。
しかし天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発すると、舅の貞能が明智光秀(要潤)に加担したため、秀種ともども改易(所領を全没収)されてしまいます。
仕方なく兄の堀秀政(ひでまさ)に仕え、二千石の知行を与えられました。
その後は羽柴家臣(陪臣)として天正12年(1584年)に小牧・長久手の合戦に参陣、天正13年(1585年)に秀政の越前転封に従って四千五百石に加増されます。
天正14年(1586年)には八千石に加増され、天正16年(1588年)には従五位下(じゅごいのげ)・出雲守(いずものかみ)に叙せられました。
兄の急死で小一郎に仕える
そんな秀種が小一郎に仕えたのは天正18年(1590年)、小田原征伐でのことです。
小田原城の包囲作戦中に兄の秀政が病没したため、秀種は急遽小一郎の部隊に組み込まれました。
戦後はそのまま小一郎の与力となり、大和国宇陀松山城(奈良県宇陀市)を任されたのです。
間もなく小一郎が世を去ると、後を継いだ婿養子の羽柴秀保(ひでやす)に仕え、その秀保も若くして亡くなると、秀種は秀吉の直臣となりました。
文禄3年(1594年)には伏見城の普請を担当し、文禄4年(1595年)には大和国宇陀郡二万石の大名となります。
秀吉の死後
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、慶長5年(1600年)に豊臣政権を二分する関ヶ原の合戦が起きると、はじめは徳川家康(松下洸平)率いる東軍に与しました。
しかし後に石田三成(松本怜生)率いる西軍へ寝返ったことから、敗戦後に改易(所領を全没収)されてしまったのです。
秀種は甥(秀政の子)である堀秀治(ひではる)を頼って越後国へ移り住み、鴎庵(おうあん)と号しました。
しかし慶長15年(1610年)に堀家が改易されてしまうと、秀種は京都の家康を訪れて赦免されます。
そして慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣に従軍。豊臣家の滅亡を見届けることになりました。
戦後は前田利常(前田利家の四男)に召し抱えられ、六千石を与えられたものの、元和2年(1616年)11月3日に世を去ったのです。
終わりに
今回は小一郎に仕えた多賀秀種の生涯をたどってきました。小一郎に仕えていた期間は、半年ほどしかなかったのですね。
一生で二度も改易されるのも凄いですが、月日はかかってもその都度復活する姿に、感銘を覚えてしまいますね。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」には多分登場しませんが、画面のどこかにそれらしい武将がいるかもしれません。注目してみましょう!
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※参考文献:
- 阿部猛ら編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年8月
- 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 第3巻』新人物往来社、1988年4月
- 高柳光寿ら『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年10月




