『豊臣兄弟!』本能寺の変、勃発!信長を失った豊臣兄弟はどう動く?次回へ続く「中国大返し」と山崎決戦を解説
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第27回「本能寺の変」にて、ついに明智光秀(要潤)が出陣。天下を揺るがす大事件、本能寺の変が勃発し、織田信長(小栗旬)が非業の死を遂げました。
横死を遂げた信長の仇を討つため、羽柴秀吉(池松壮亮)は中国戦線から大急ぎで京都へと舞い戻ることとなります。
これが後世に伝わる「中国大返し」、京都へ戻った秀吉は、憎っくき光秀と天下の命運を決める山崎の合戦へ臨みます。
今回は『太閤記』より、中国大返しと山崎の合戦について紹介。果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、この名場面がどのように描かれるのでしょうか。
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尼崎に諸将が集結
時は天正10年(1582年)6月3日、子刻(深夜24:00ごろ)に備中高松(岡山県岡山市北区)の秀吉陣中へ飛脚が届きました。本能寺の悲報を受けた秀吉は、毛利輝元(濱正悟)との和議をとりまとめます。
そして6月6日の未刻(午後14:00ごろ)に秀吉は高松を出立し、その日は沼城(岡山県岡山市東区)まで到達しました。距離的にはほとんど動いていない印象ですが、出陣態勢を整えたのでしょうね。
翌6月7日には洪水のため足止めを食らい、6月8日には本拠地の姫路城(兵庫県姫路市)へ帰還しました。
改めて支度を整えた秀吉一行は6月9日に姫路を出立、6月11日に尼崎城(兵庫県尼崎市)へ到着します。
ここでかねて招集していた織田信孝(結木滉星)・丹羽長秀(池田鉄洋)・池田恒興(堀井新太)・池田元助(恒興嫡男)らが、続々と尼崎城へやってきました。
信孝が秀吉の呼び出しに応じた理由
信長の三男である信孝が、重鎮とは言え家臣に過ぎない秀吉に呼び出されたことを不思議に思った方も少なくないでしょう。
信孝が秀吉の指示に従った理由は、大きく以下が考えられます。
一、身分の上下を問うている場合ではない
一、秀吉が中四国戦線で最大の兵力を抱えていた
弔い合戦に時間をかけると、明智光秀に与する者が現れないとも限りません。そこで力を合わせ、速やかに光秀を討つ必要がありました。
そんな中、大軍を抱える秀吉は、一度動き出せば小回りが利きません。何かと時間がかかるため、動きは最小限におさえる必要がありました。
またもし秀吉が心変わりして光秀に与することがあれば、畿内周辺の織田家臣にこれを抑えられる者はいません。
素早く光秀を討つため、また寝返られないためにも、秀吉には色々と気を遣う必要があったようです。



