『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)の無断撤退、実は信長(小栗旬)の命令だった?中国攻めに隠された驚きの大戦略
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれた、秀吉の「無断撤退」と「播磨攻め」。重大な軍令違反を犯したはずの秀吉は、なぜ信長に許され、中国方面軍司令官という重責を託されたのか。
その背景には、毛利輝元(濱正悟)との対決を見据えた信長の大戦略があった。
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信長は最初から秀吉を罰する気がなかった?
『豊臣兄弟!』第21回「風雲!竹田城」では、秀吉が信長から播磨攻めを任された理由として次のように描かれた。
●秀吉・秀長が松永久秀(竹中直人)と直談判し、平蜘蛛茶釜(実は偽物だったという設定)を持ち帰ったことで軍令違反を許された。
●「織田家の武将たちが各地で戦っており、ほかの武将がいなかったから」(秀長談)。
しかし史実は、そのような単純なものではなかった。
信長にはもとより秀吉を処罰する気がなかったのである。
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その理由は、前年の1576年(天正4年)頃から形成されていた、いわゆる第三次信長包囲網にあった。
今回も盟主的存在は、信長により京都を追われた足利義昭(尾上右近)である。義昭は中国の雄・毛利輝元の庇護のもと備後に落ち着くと、そこから反信長勢力に御教書を送り決起を促していた。
義昭が頼りとした一人は越後の上杉謙信(工藤潤矢)だった。1577年(天正5年)4月、謙信は石山本願寺の顕如と和睦交渉を行い、翌月には和睦が成立した。謙信は長年にわたり越中の一向一揆と戦っていたが、信長との戦いで苦境に陥った顕如が謙信に援助を求めたことがきっかけになったとされる。
本願寺との和睦によって後顧の憂いを断った謙信は、越中・能登の支配を固め、およそ100万石規模の勢力を築いた。しかし本願寺と和睦することは、結果的には織田との決別を意味した。
このような謙信の動向に対し、信長は柴田勝家(山口馬木也)を総大将に越後に軍を送る。援軍として出陣していた秀吉が無断撤退をしたのはこの時であった。勝家はこの直後、手取川の戦いで手痛い敗戦を喫することになるのだが……。
そして謙信に呼応するように、輝元はもちろん、その麾下である備前・美作の宇喜多直家(緋田康人)、大坂の石山本願寺、大和の松永久秀、さらに長篠の戦では大敗を喫したものの着々と勢力を回復していた甲斐の武田勝頼が加わり、ここに第三次信長包囲網が完成した。
信長は三度、四方を敵に囲まれるという状況に陥ったのである。しかし、信長はこの事態に対し冷静に対応した。先ずは畿内の反信長勢力の駆逐を開始し、大和信貴山城に籠る松永久秀を攻め滅ぼす。
そうして信長は、毛利氏の影響下にある中国地方攻略の司令官として秀吉を抜擢するのである。実はそこには驚くべく、信長と秀吉による大戦略が隠されていたのだ。




