『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)の無断撤退、実は信長(小栗旬)の命令だった?中国攻めに隠された驚きの大戦略:3ページ目
信長が中国攻略を急いだ理由
ではなぜ、信長は播磨攻略を急いだのか。その理由は、第三次信長包囲網を構成する大名たちの位置関係を見れば明確な答えが出る。
簡単に言えば、信長は北陸の上杉よりも中国の毛利を強敵と見なしたのだ。先にも述べたようにように、謙信の所領は100万石、兵力は総数で5万ほど。
これに対する勝家は、若狭・越前・加賀を統括し、その麾下には前田利家・佐々成正・佐久間盛政などの武将が居並ぶ。信長は、勝家の北陸軍団だけでも上杉軍を十分に牽制できると判断したのであろう。
それとともに謙信が上洛軍を率いて西上したとしても、それは遠征軍となる。その行軍ルートには織田方の諸将が待ち受けており、本拠地の春日山城も手薄になるのは避けられなかった。
しかし、中国はそうはいかなかった。まず中国地方は畿内と接している。また中国地方の石高は約200万石、そのうち播磨・但馬だけで約50万石もある。ここを毛利に奪われると信長にとっては大きな打撃となるのだ。そして、この地方の国衆たちは、毛利に付くか織田に付くか非常に微妙な状況にあったのである。
さらに播磨が毛利方になれば、毛利と大坂の石山本願寺との瀬戸内海上ルートができあがってしまう。そうなると畿内情勢に大きな影響が出るのは必然であった。だからこそ信長は、北陸戦線から急いで秀吉を呼び戻したのだ。
そして秀吉は、中国方面軍の司令官として播磨へ乗り込んだ。しかし、順調に進むかに見えた播磨攻略は、やがて思わぬ暗礁に乗り上げる。一度は織田方についたはずの別所長治(下川恭平)が突如離反したのである。
その背景には、秀吉が進めたある政策への反発があった。次回は、秀吉を苦境に追い込んだ第22回「播磨大誤算」の真相を探ってみたい。
『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)、記憶喪失に…次回6月7日放送「播磨大誤算」あらすじ&場面写真、相関図が公開
※参考文献
染谷光廣著 『秀吉の手紙を読む』吉川弘文館
磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』文春新書


