『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)の無断撤退、実は信長(小栗旬)の命令だった?中国攻めに隠された驚きの大戦略:2ページ目
信長と秀吉が描いた播磨攻略のシナリオ
秀吉と秀長(仲野太賀)が播磨入りしたのは、1577年(天正5年)10月23日とされる。この時、秀吉は自らの手勢4千に加え、信長から与えられた6千を加え、約1万の軍勢を率いて播磨に進軍した。
播磨入りした秀吉の動きは素早かった。それもそのはず、秀吉は7月の段階ですでに小寺官兵衛(倉悠貴)に対し調略を始めていた。いやもしかすると、すでに味方に付けていたのかもしれない。驚くことにこの時期は、北陸戦線で柴田勝家と衝突し無断撤退した時と見事に重なるのである。
それを裏付ける史料がある。同年7月23日付けの秀吉は官兵衛に送った書簡だ。
「其方のきハ、我らおとゝの小一郎めとうせんに心やすく存候」
つまり「あなたのことは、私の弟である小一郎と同然に心から親しく思っている」
と、記されているのである。
この書簡から秀吉は信長の命を受けて、官兵衛の調略を行っていたと考えるのが普通だろう。そして調略が進んでいると判断した信長は、秀吉を畿内に呼び戻したのである。
このように考えると秀吉の無断撤退は、後世に言われるような単純な軍令違反ではなかった可能性がある。むしろ信長が秀吉をして中国戦線への転用を前提に動いていたと考えるならば、この離脱も信長の了解のもとで行われたとみることができるのだ。
だから秀吉は信長から処断されることはなかった。そして勝家も織田家の筆頭家老としての地位を保ったのである。
