手洗いをしっかりしよう!Japaaan

『国宝』公開から1年…今こそ考えてみる「歌舞伎座」の価値とは?雰囲気を纏った歌舞伎の殿堂

『国宝』公開から1年…今こそ考えてみる「歌舞伎座」の価値とは?雰囲気を纏った歌舞伎の殿堂

かつての東京メトロ「東銀座」駅3番出口。

地上へと向かう細い階段を登り、外の景色が見えた時、真っ先に目に飛び込んでくる歌舞伎座の姿…

歌舞伎座に行くたび、この瞬間に立ち会うのが好きでした。初めて歌舞伎座に行った時の、あの高揚感は、いまだに心の中に鮮明な記憶として残っています。

今、その場所に3番出口はありません。 「東銀座」駅は現在、歌舞伎座と直結しています。改札を出ればすぐに歌舞伎座の敷地内地下1階の「木挽町広場」に入ることができます。

3番出口は「木挽町広場」からエスカレーターで外に出る出口に変わりました。出口から見える景色は一変しました。

 

壮麗な佇まいの歌舞伎座。その壮麗さが、幾多の困難を経て生まれたものだということを知ると、その姿により深みが増していきます。

開場は明治22(1889)年、実業家・福地源一郎をはじめとする様々な人々の尽力によって、現在の地である銀座・木挽町に建てられました。

上の画像にもあるように、意外に思われるかもしれませんが、第一期の歌舞伎座は、西洋建築をベースに建てられました。明治22年の日本は、まだ近代化がはじまった頃です。西洋の文化が次々と日本に入ってきた時代の中で、「西洋にも負けない劇場を」という意識があったのかもしれません。

その後明治44(1911)年大改修を経て、外観も純日本式の宮殿風に変わった第二期歌舞伎座が誕生しました。約20年ほどで、「西洋に負けない劇場」から、「日本文化の価値を見せる劇場」へと意識が変化していきました。しかし大正10(1921)年、漏電による火災で焼失してしまいます。

復活にむけて動き出した歌舞伎座ですが、再建途中の大正12(1923)年9月1日には、関東大震災で被災し、当初の復活予定時期が遅れてしまいます。様々な災難を経て、三代目の歌舞伎座が大正13(1924)年に再開場し、現在の桃山様式風の雰囲気を持つ外観になりました。

その後、戦時中の空襲によって再度焼失したものの、戦後再建された第四次歌舞伎座でも桃山様式風は残り、戦後から今日までの歌舞伎の隆盛の拠点になっています。文字通りの名称を冠した、歌舞伎の「殿堂」といってもいい存在です。

2ページ目 変わっても「変えなかった」もの

 

RELATED 関連する記事