どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは
豊臣秀吉という人物に対する一般的な評価といえば、「旺盛な才覚の持ち主」という言葉に集約されるのではないでしょうか。
人間味あふれる親しみやすさで周囲を惹きつけ、ときに圧倒的な存在感で場を掌握する。そんな稀有なカリスマを備えた人物でした。
現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、機転が利き、人心掌握に長け、行動力あふれる野心家として描かれています。まさに、その才覚を存分に発揮して戦国乱世を駆け上がり、ついには天下統一を成し遂げた英雄といえるでしょう。
ところが……。
その秀吉を武家として見るとき、どこか決定的に欠けているものがあったのではないか、と思えてならないのです。
戦国を問わず、武家にとって何よりも重んじられたのは「家」という概念でした。それは単なる家族ではなく、自らの死後も末永く存続していく“家の繁栄”への強い願いです。子孫へと続く血脈を守り抜くことこそが、武士の本懐でもありました。
だからこそ彼らは、命を賭して戦場に立ち、武功を求めたのです。もちろん秀吉も、その競争の只中を生き抜き、天下人にまで上り詰めました。しかし、その歩みを振り返ると、どこか「家」というものへの執着が希薄だったようにも見えてきます。
今回は、秀吉が生前に行った三つの出来事に焦点を当て、それがいかにして豊臣の「家」が滅亡する遠因となったのかを、あらためて考えてみたいと思います。
読み返すたびに疑問が生じる「秀吉の御遺言」
一つ、内府(徳川家康)殿に対しては、太閤様も、長い間その律儀な人柄であるのを知っていられ、近年になって親しくされた。そうして、秀頼様を家康の孫千姫の婿になされたのだから、その孫婿の秀頼様を取り立てて頂きたいと、大納言(前田利家)殿と年寄五人のいる所で、度々仰せになったことである。
一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。
一つ、備前中納言(宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。
一つ、(上杉)景勝と(毛利)輝元は、律儀な人柄だから、秀頼様のことを取立てて頂きたいと、輝元には直々仰せられた。景勝は領国にいるので、皆々に云い渡された。
以上が、十一ヶ条にわたる「秀吉の御遺言」とされるものの一部です。これを読み返すたびに、筆者は正直なところ、どこか呆れにも似た思いを抱いてしまいます。
率直にいえば、「どうした、秀吉?」という気持ちです。死を前にして語られた言葉とはいえ、いったい何を思ってのことだったのか、と考え込まずにはいられません。
62年の生涯のなかで、豊臣家の行く末について、もっと周到に備えることはできなかったのでしょうか。
いや、そればかりか、結果としてその将来を危うくする道を、自ら選んでしまったのではなかったか……。
そんな思いが、どうしても胸に浮かんでくるのです。
それではここから、豊臣家滅亡の遠因となったとも考えられる、秀吉の三つの判断について、あらためて見つめ直していきたいと思います。
