本能寺の変、原因は“金”だった?信長も直面した「資金繰り悪化」と天下取りの転落ルート
減税・自由化という統治術
織田信長という人物には暴君というイメージがつきまといます。
しかし、残された史料を読み解くと、領主としての信長はむしろ合理的思考の持ち主で、領民からの支持も厚かったことがわかります。
その背景にあったのが、信長の鋭い金銭感覚でした。彼は戦のたびに増税を繰り返した武田信玄とは正反対の姿勢を取っています。
例えば甲斐国を支配した際、部下に渡した注意書に「百姓からは年貢以外の税を取るな」と明記しています。さらに「関所で通行税を取るな」「駒の口で不当な課税をするな」とも命じています。
当時の農民は、領主だけでなく地元の有力者や隣国の領主からも二重三重の年貢を要求されていました。信長はこの悪習を廃止し、農民の負担を大幅に軽減したのです。
ちなみに関所を廃した戦国大名は信長だけで、これは領主にとって大きな収入源を自ら断つ決断でした。
この政策には二つの狙いがありました。
一つは、人口の大多数を占める農民の支持を得ること。もう一つは、反乱の温床となりやすい地元有力者を経済的に弱体化させることです。
さらに信長は、商業の自由化を進める楽市・楽座を採用し、流通を活性化させました。
こうした「減税」と「自由化」を実行できた背景には、信長の家がもともと豊かな財力を持っていたことがあります。
祖父の織田信定は津島湊の利権を握り、貿易で莫大な富を築いていました。信長の初期の余裕のある振る舞いは、この財力に支えられていたのです。
