これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】
奈良時代後期の769年(神護景雲3年)、九州・大宰府から朝廷に「僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を天皇に立てれば、天下は泰平となる」との宇佐八幡宮の神託が伝えられた。
この神託を大いに喜んだ孝謙(称徳)天皇は、その真偽を確かめるべく宇佐八幡宮に使者を遣わした。しかし、同宮からは「天皇の位は必ず皇統の血を引く者が継ぐべし」との託宣が下り、道鏡の即位の企ては阻止されることとなった。
初代・神武天皇以来、「万世一系」を原則としてきた天皇家において、なぜ孝謙天皇は、皇族の血を引かぬ一介の僧を皇位に就けようとしたのか。
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盲目的な愛の果てか?歴史的冒涜か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題とは【前編】
[後編]では、皇位に就いた後の孝謙天皇と道鏡との関係、そしてその皇位擁立の真相について考察する。
男系継承の原則に基づく女性天皇として即位
孝謙天皇即位3年後の752年(天平勝宝4年)、東大寺大仏の開眼法要が行われたが、756年(天平勝宝8年)、聖武天皇は崩御し54歳の生涯に幕を閉じた。
聖武天皇は遺詔により、孝謙天皇の皇太子として、天武天皇の皇子・新田部親王の子である道祖王(ふなどおう)を立てた。これは、孝謙天皇が男系継承の原則に基づく女性天皇として、生涯独身を貫き、子を残さないことを前提とした措置であった。
こうして孝謙天皇の時代が始まったが、その治世は大きく二つの時期に分けられる。前半は760年(天平宝字4年)の光明皇太后が崩御まで、後半は770年(神護景雲4年)の孝謙(称徳)天皇の崩御までである。
前半期は、孝謙天皇の母であり、聖武天皇の皇后であった光明子を背景とする政治体制のもとに展開した。
光明子は光明皇太后となり、聖武天皇の一周忌を終えると、孝謙天皇を伴って甥にあたる藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の次男)の邸宅・田村第に移った。ちなみに、孝謙天皇と仲麻呂は12歳違いで、仲麻呂の方が年上である。二人は従兄弟の関係にあり、幼少のころから親しく知り合っていたと想像される。
仲麻呂は生まれつき聡明で、算術や経書などあらゆる学問に才を発揮した。また、聖武天皇が推進した仏教に対しても深い信仰心を抱いていたと伝えられる。
孝謙天皇が、そのような仲麻呂に憧れを超えて恋心を寄せていたとしても、不思議ではない。このため、しばしば孝謙天皇と仲麻呂が愛人関係にあったのではないかと語られてきた。しかし、女帝という立場を考えれば、実際にそのような関係に発展したとは考えにくいだろう。
皇太后は多くの同族の中からとくに仲麻呂を引き立て、皇后の家政機関である皇后宮職を「紫微中台」と改め、大納言に任じられたばかりの仲麻呂をその長官・紫微令に就けた。
この紫微中台を構成する役人の数や官位の高さは太政官に匹敵し、やがて孝謙天皇に代わって国政を執行する機関となった。すなわち、光明皇太后と藤原仲麻呂による独裁的な政治が展開されたのである。
この期間中には橘諸兄が失脚し、諸兄の子で皇太后の甥にあたる橘奈良麻呂の乱が起こった。仲麻呂は、事を穏便に収めるよう命じた皇太后の意向を無視するかのように、反仲麻呂勢力を徹底的に粛清した。
そして、758年(天平宝字2年)、皇太后が体調を崩すと、天武天皇の皇子・舎人親王の七男である大炊王が即位し、孝謙天皇は太上天皇(上皇)となった。これが第47代・淳仁天皇である。淳仁天皇の妃は粟田諸姉で、彼女は早世した長男・藤原真従の夫人であった。その関係から、大炊王は藤原仲麻呂の邸宅で暮らしていたと伝えられる。
孝謙天皇の譲位の理由は、表向きには病を得た光明皇太后に仕えるためであった。しかしその背後には、光明皇太后の死後も仲麻呂が権力を保持するための布石であったことを、天皇自身も理解していたであろう。
だが仲麻呂にとって誤算だったのは、760年(天平宝字4年)7月に光明皇太后が崩御した後の孝謙上皇の変貌であった。





