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これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】

これは歴史的冒涜か?盲目的な愛か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題を考察【後編】:3ページ目

道鏡を天皇位につけることを画策する

762年(天平宝字6年)、淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙上皇は平城京郊外の法華寺に住まいを定め、出家して法基尼と号した。これは、上皇が平城京に入れば貴族や官人が道鏡に反発することを懸念したためともいわれる。

しかし、このような上皇の動きを見た淳仁天皇が諫言を述べたことから、両者の関係は悪化した。

やがて764年(天平宝字8年)9月、朝廷の最高権力者である太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が、孝謙上皇を排除しようと企てた。これがいわゆる「藤原仲麻呂の乱」である。

仲麻呂は上皇のスキャンダルを口実としたが、先手を打った上皇は吉備真備を中心に仲麻呂追討軍を組織し、わずか7日間で反乱を鎮圧した。仲麻呂をはじめ、その一族はことごとく誅殺された。

同時に、孝謙上皇は淳仁天皇を仲麻呂の共犯とみなして廃位し、淡路国に配流した。廃位後の淳仁天皇は「淡路廃帝」と称され、配流先でも上皇の監視を受け続けた。765年(天平神護元年)10月、脱出を試みたが連れ戻され、翌日に崩御した。死因については、孝謙上皇の命による暗殺であったとする説が有力である。

淳仁天皇を廃位に追いやった孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となった。以後、天皇と道鏡による政権運営が6年間続いたが、天皇は皇太子を立てることはなかった。

その間も天皇の道鏡への寵愛は深まるばかりで、ついに766年(天平神護2年)、僧として最高位にあたる法王の称号を与えた。「法王」は国を治める王を意味すると解される場合もあり、称徳天皇が道鏡をいかに信頼していたかがうかがえる。

そして、769年(神護景雲3年)、九州・大宰府から「道鏡を天皇に立てれば天下は泰平になる」との神託がもたらされた。これを大いに喜んだ称徳天皇は、神託の真偽を確かめるため、和気清麻呂を宇佐神宮に派遣した。天皇も道鏡も、清麻呂が「神託は本物である」と報告すると考えていた。

しかし、都に戻った清麻呂は「天つ日嗣は必ず皇族を立てよ」との神託を上申した。これに激怒した天皇は、清麻呂の名を「穢麻呂(きたなまろ)」と改め、大隅国に配流してしまった。

それから1年後の770年(神護景雲4年)3月、称徳天皇は再び発病した。だが今回は、その看病のために道鏡は呼ばれなかった。ここから道鏡の権力は急速に衰えていく

天皇が病に臥す事態となり、政治の実権は藤原永手や吉備真備らを中心とする太政官に戻った。そして同年8月、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。享年53歳だった。

その後、皇統は天智天皇系の白壁王が継ぎ、第49代光仁天皇として即位したのである。

4ページ目 道鏡の登用は仏教政治を推進するため

 

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