地獄太夫の再来!?明治時代に実在した遊女“幻太夫”の凄まじい成り上がり精神【前編】
今回ご紹介する「幻太夫」という遊女は一風変わった人物です。
よくドラマなどで貧乏な娘が吉原に売られていく時“毎日白い米が食べられるんだよ”というのはよく聞く台詞です。
遊郭というところは一度入ったら出ることが出来るのは、身請けされたときか死んだ時だけ。好きでもない男と枕を共にしなければならず、性病などで若くして亡くなる者も多いのです。ところが幻太夫は。。。
石川田鶴(たづ)
幻太夫の本名は石川田鶴(たづ)両親を亡くして、初め(明治十一年頃)は横浜の遊郭で遊女をしていました。美しく教養もあり頭も良かったのでしょう、大変評判が良くすぐにある資産家に身請けされたのです。
しかし田鶴が家庭に収まっていたのはわずかな間で、すぐに家を出てしまったのです。せっかく遊郭を出てお金持ちの家で生活できる身分になったのに、多少気に入らないことがあっても行く先が遊郭しかないのなら、少しは我慢して辛抱するのではないかと思うのですが。
明治十三年には、新吉原の中でも格の高い“品川楼”で遊女として働いていました。
二代目盛紫を源氏名に
上掲の浮世絵に描かれているのは品川楼にいた初代の“盛紫”です。盛紫は妻子持ちの警察官と恋仲になり、その警察官は遊郭通いのためについに公金にまで手を出してしまいました。盛紫も借金を重ね、その返済日の前夜“品川楼”で心中してしまいます。
田鶴はあえて源氏名を“二代目盛紫”と名乗りました。盛紫の名前が心中事件で有名だからです。売れるためなら何でもやるというなんとも肝の座った女性です。
心中事件後、初代盛紫の部屋には幽霊が出るという噂が広まると、二代目盛紫は毎日その部屋へ入り、鏡に向かって何かを話しかけて礼をするようになりました。
二代目盛紫の部屋は、床の間には達磨の掛け軸をさげ、棚の上には観音菩薩像、勢至菩薩像、閻魔大王像が飾られているというなんとも異様な様相だったといいます。
二代目盛紫の姿といえば当時は珍しかった切り下げ髪を紫縮緬で括り、うちかけの背中一面に後光を放つ阿弥陀仏像が描かれ、裾には天女が紫雲に乗る模様。
中の着物は野ざらしの髑髏と卒塔婆の模様といった出で立ちで、地獄太夫の再来と噂されるようになりました。
「地獄太夫」については以下の記事チェックしてください。
伝説の美しき遊女・地獄太夫。人々に愛された地獄太夫と一休禅師が与えた影響[前編]
二代目盛紫は品川楼から突然姿を消し、いつしか根津の「松葉楼」で“田鶴”の名でまた遊女として現れます。