妻と妹の七光り?で大出世!蛍大名と呼ばれた戦国武将・京極高次の出世までの軌跡を紹介
主君や親などの威光が大きく、その余光が長く及ぶことを七光りといいます。
よく親の七光りとして広まっておりますが、戦国時代には妹や妻の力を借りて出世した武将がいたことはご存知でしょうか。その武将の名前は京極高次(きょうごく-たかつぐ)。
落ちてしまった地位を女性の光を使って取り戻したことをからかわれて「蛍大名」と呼ばれていました。
今回はそんな高次の転落から出世までの軌跡をご紹介します。
浅井長政とは叔父と甥の関係だった
京極家は室町幕府の軍事召集と京都の警察をつかさどる侍所の長官を務める四職の一家でした。
また、出雲・隠岐・飛騨・近江の守護も兼任していましたが、応仁の乱時に起きた家督争いである京極騒乱によって衰退。家臣であった浅井家に唯一残った北近江を乗っ取られてしまいます。
永禄3年(1560)に高次の父・京極高吉は六角家と手を組んで浅井長政と戦いますが、負けてしまったことで北近江の支配権を完全に奪われてしまいます。
また、高吉は長政の姉・京極マリアと婚姻し、永禄6年(1563)に高次が誕生しました。
この時の京極家は室町幕府将軍の近臣として仕えていましたが、足利義昭が織田信長と対立すると、信長とは一戦交えないことを証明するために高次を人質に出しました。