このイケメン武士、何者?戊辰戦争で活躍した上田甚五右衛門のエピソード【上】
日本の未来を切り拓くため、多くの志士たちが文字通り命がけで奔走した激動の幕末。
古来「死と向き合うことで、よりよく生きることができる」などとはよく言ったものですが、志士たちの生き方がその表情に表れていることは、遺された彼らの写真を見てもよく解るのではないでしょうか。
今回紹介するのはそんな一人、その名も上田甚五右衛門(うえだ じんごゑもん)。
どっかと胡坐をかいて太刀を抱え、その手には先進的なリボルバー拳銃が握られた勇ましいスタイル。胸元にはオシャレな懐中時計が光る一方、右肩に縫いつけられた袖印(そでじるし。味方の識別票)に、戦場の緊張感が伝わってきますね。
さて、そんな甚五右衛門は、いったいどんな活躍をしたのでしょうか。
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徳島藩士として蜂須賀家に仕える
上田甚五右衛門は徳島藩士として蜂須賀斉裕(はちすか なりひろ)に仕えました。この蜂須賀家はかつて太閤・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に仕えた蜂須賀小六(ころく。正勝)の子孫ですが、斉裕は養子。
子沢山で有名な江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉(とくがわ いえなり)の22男として生まれたところ、外様大名である蜂須賀家へ出されたのでした。
当時、徳島藩は放漫経営と重税によって国内が乱れており、天保14年(1843年)に23歳で藩主を継いだ斉裕は改善に着手。財政再建によって海防強化を推進、イギリス式の軍制や装備を充実させます。
そんな実績が買われたのか、文久2年(1863年)12月には幕府の軍制改革として新設された海軍総裁と陸軍総裁(どちらも最高職)を兼務で任命されました。
誠に結構ではあるものの、総裁としての格式を保つための出費があまりに膨大だったため、徳島藩の財政が破綻寸前まで追い込まれてしまい、どちらも短期間で辞任しています。
もしかしたら、徳川将軍家の血を引いていながら討幕派に与したのは、こういう硬直しきった組織体質の限界を感じていたのが理由かも知れません。
さて、ペリーの黒船来航に代表される欧米列強の脅威に対して、日本はどのように立ち向かうべきか……幕府(佐幕)か朝廷(尊王攘夷)か、あるいは両者(公武合体)か……日本中で議論が湧き起こる中、徳島藩においても意見が割れていました。
「一天万乗の大君を奉戴し、皆が一丸となって国難に立ち向かうべきだ!」
「いや、軍事の実務は武家の棟梁たる徳川将軍家の号令なくして立ちいかぬ!」
「ならば、朝廷の権威をもって将軍家が国防の指揮を執ればよかろう!」
藩主の斉裕が公武合体派(幕府の限界は感じていても、流石に滅ぼそうとまでは考えていなかったようです)であったのに対して、筆頭家老の稲田植誠(いなだ たねのぶ)らは幕府を完全に排除したい尊王攘夷派。
稲田氏は淡路国(現:兵庫県淡路島)洲本城代で国内の意見をまとめており、藩主らの徳島側と家老らの淡路側との対立構造が出来てしまいます。これが後に戊辰戦争で同志諸藩に後れをとってしまう原因となるのでした。