戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【一】
昔から、戦場で男性に負けず劣らず武勇を奮い、大活躍した女性のエピソードはたくさんあります。
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ですが、その多くは陣頭指揮を執ったというものが多く、武勇や技量がものを言う一騎討ちとなると、その数はやはり限られて来ます。
今回は賤ヶ岳の戦いをはじめ、虎退治など数々の武勇をもって恐れられた猛将・加藤清正(かとう きよまさ)に一騎討を挑んだお京(きょう)の方の武勇伝を紹介したいと思います。
お京の方のプロフィール
お京の方は肥後国(現:熊本県)に生まれましたが、正確な生年月日や出自、両親の名前などについてはよく判っていません(木山弾正室などと伝えられるのみ)。
後に夫・木山弾正正親(きやま だんじょう まさちか。こちらも生年不詳)が加藤清正に一騎討ちで討たれるのが天正十七1589年。清正は永禄五1562年生まれの清正は当時28歳なので、互角以上の勝負を演じた正親の享年は35~40歳前後が限界(※当時の40代は初老の感覚)と考えられます。
正親が天文十九1550年~弘治元1555年ごろの生まれとして、仮にお京の方が5~10歳年下だったとして、彼女は弘治元1555年~永禄八1565年くらいの生まれと見れば、後に登場する息子の年齢も十分に確保可能です。
(※以降、お京の方は永禄三1560年、正親は天文十九1550年生まれとして話を進めていきます)
ちなみに「お京」という名前についても、後世の人が語り伝える便宜上つけたものだそうで、本名は不明となっています。
剛毅木訥は仁に近し……「どもり弾正」正親との幸せな新婚生活
そんなお京が正親と結婚したのは、恐らく15歳となった天正二1574年前後。正親は若い頃から武芸に秀で、父・木山弾正正友(まさとも)の頼もしい後継者として将来を嘱望されていましたが、一つコンプレックスがありました。
その立派な風貌や朗々たる声に似合わぬ吃音症(どもり)で、人と話をするのが苦手だったため、人は正親を「どもり弾正」などと囃したてることもあったそうですが、お京は「剛毅木訥は仁に近し」とばかり気にしません。
「言葉の巧みさなどよりも、あなた様が喜ばせて下さろうと、一生懸命にお話し下さる心の優しさが、私は何より嬉しいのです」
「それに古来『巧言令色鮮し仁』と申すではありませぬか。あなた様は口先だけでうわべを飾るより、懸命に汗を流して奉公なさるお姿こそお似合いなのです」
誰が何と笑おうと、あなた様は私にとってただ一人の大切な伴侶。そう言われて、やる気にならない男はいないでしょう。正親はより一層奉公に励み、夫婦仲も睦まじく長男・傳九郎(でんくろう)、そして後に横手五郎(よこての ごろう)と称する次男を授かります。